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歴史ぶらり旅 第10回 古代史をめぐる二つの歴史展 加耶展と日本書紀1300年展

2020-01-25

KBS WORLD Radio

国立中央博物館(ソウル龍山区)


1990年代以降、加耶時代の遺跡や古墳の発掘が進み、大量の出土品や重要な発見があった。今回の特別展は、この30年間の最新の研究成果を一堂にまとめ、紹介する機会となった。


加耶は3世紀には、朝鮮半島でもっとも早く1200度の高温で硬く焼き上げる土器の製法を確立していた。遺跡からは大量の土器が完全な形で発掘され、その複雑で巧みな意匠と量の迫力には圧倒される。


弥生式土器(左)と日本製の勾玉がついた金冠。当時、日本との間で交易が盛んに行われていたことを示す遺物。出土する土器の半数が日本から持ち込まれた弥生土器だった遺跡もあり、鉄の取引きでやってきた倭人がムラを造って居住し、貿易を営んでいたとみられる。


当時の加耶は東アジアにおける鉄の生産と交易の中心だった。鉄の交易は鉄鋌(てってい)あるいは鉄斧(てっぷ)と呼ばれる板状のインゴット(塊)で取り引きされた。倭人たちはこうした鉄鋌・鉄斧を日本に運んだあと、鍛造し直し、細かく切断して、さまざまな道具や刃物、装飾品などに加工した。


加耶の高度な鉄の加工技術を示す甲冑と冑。最近の遺跡の発掘からも、鉄を生産・加工する職人が身分的に高い地位に占め、権力を掌握し、鉄加工用の工具を独占していたことを示す跡が見つかっているという。


重武装の馬に乗る武人「重装騎兵」を象った角杯の土器。馬の体は「馬甲」と呼ばれる鉄板の鎧で覆われている。重装騎兵は戦場で敵陣に真っ先に切り込み役割を担っていた。


当時、日本や中国をつなぐ海路を航行していた二重底船を模した船形土器。加耶の鉄を日本に運んだ船は、各地の港を繋いで、山陰ルートと瀬戸内海ルートの二つの「鉄の道」を作った。それらの港近くの遺跡からは、必ず鉄の遺物や鉄の加工場の跡が見つかっている。


特別展「加耶の本質~鉄と弦~」はソウルの国立中央博物館で3月1日まで、そのあと釜山市立博物館(4月1日~5月31日)、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館(7月6日~9月6日)、福岡太宰府市の九州国立博物館(10月12日~12月6日)を巡回する。


日本書紀成立1300年を記念した「出雲と大和」展(東京国立博物館1月15日~3月8日)。日本書紀には、加耶をはじめ三国時代に関する多くの記述があり、加耶展の展示解説でも日本書紀からの引用が多くみられた。加耶も出雲・大和も時代を共有し栄えた古代都市。同時代の古代史を見つめる歴史展が韓日双方で同時開催されるのも興味深い。

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