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歴史

428キロメートルの成功

2015-04-07

428キロメートルの成功
1970年7月7日。2年5ヶ月にわたる建設工事を終えて、首都ソウルと韓半島の南東部、釜山(プサン)を結ぶ全長428キロの京釜(キョンブ)高速道路が開通しました。韓半島の南北を結ぶ京釜高速道路は、韓国政府が進めていた経済発展計画をバックアップする重要な役割を果たしていきます。

政府が1962年から進めていた第1次経済開発5ヶ年計画によって韓国は毎年8パーセント以上の経済成長を遂げていました。その過程で、鉄道「京釜(キョンブ)線」の貨物量は4割以上、運行回数も8割以上増え、貨物の輸送が大きな問題として浮かび上がりました。順調な経済発展を実現させるためにも貨物輸送の問題は早急に解決すべき問題でした。韓国大統領や政治家が注目したのは先進国、特にドイツのアウトバーンでした。韓国の産業を発展させるため、高速道路の必要性に注目したのです。

1967年の始め。韓国政府は京釜高速道路の建設計画を確定、翌年の12月には「国家機関高速道路建設設計調査団」を発足するなど、意欲的に高速道路の建設を押し進めていきます。しかし、京釜高速道路の建設は計画の段階から大きな壁にぶつかりました。京釜高速道路の建設妥当性を調査した国際復興開発銀行=IBRDは韓半島の南北を結ぶ京釜高速道路の建設に否定的な見解を示したのです。国際復興開発銀行の報告書によると、日本による植民地時代、韓国の物流輸送のほとんどを担っていた鉄道「京釜線」は老朽化しているため、これを補う何らかの措置は必要だが、港湾を中心に見ると、韓半島を南北に縦断する高速道路よりは、ソウルと東部の江陵(カンヌン)、そして南部の浦項(ポハン)と光州(クァンジュ)を結ぶ、つまり東西を横断する2本の道路建設が望ましいという勧告案を提示したのです。

韓国内でも賛否両論が激突しました。「京釜高速道路は地域発展の不均衡を招きかねない」、「高速道路を建設するお金で中小企業を活かし、農水産物の供給安定を図るべきだ」、さらに「今、韓国に必要なのは高速道路ではなく、一般道路である」などさまざまな反対意見がありました。こうした批判的な意見にもかかわらず、韓国政府は予定通り、1968年2月1日、ソウルと、ソウルの近郊、水原(スウォン)区間の建設にとりかかりました。京釜高速道路の建設は、7つの区間に分けて進められ、16の建設会社がこれに参加しました。
 
当時の韓国は、高速道路の建設に必要な技術と装備など、どれ一つ、完備されたものはありませんでした。水路を作るのも機械ではなく人の手でやっていました。建設が始まって1年半が経った頃、京釜高速道路は徐々にその姿を現わし始めました。1969年12月には、全体7区間のうち、5つの区間が開通されます。完成も間近、と思っていた時、建設作業は最大の難関にぶつかります。京釜高速道路のちょうど中間地点にあたる忠清北道(チュンチョンブクト)沃川(オクチョン)のタンジェトンネルの工事が思うように行かなかったのです。沃川地域では片麻岩や堆積岩を掘削してトンネルを作らなければならなかったため、土砂崩れなど事故が多く、11人の作業員が命を落としました。予定通りに作業を終わらせるため、現場では3交代でドリル作業を進め、タンジェトンネルから近い丹陽(タニャン)のセメント工場の作業を止め、トンネル用の疎剛セメントを生産させました。鉄道で運送すると時間がかかるのでトラックで運んで作業を続け、やっとのことで、1970年6月27日の夜にタンジェトンネルを開通することができました。

大勢の人の汗と涙、あきらめを知らない努力によって、着工から2年5カ月ぶりに、ソウルから京畿道(キョンギド)、忠清道(チュンチョンド)、慶尚道(キョンサンド)を経て、釜山に至る京釜高速道路が誕生しました。京釜高速道路が完工したことで、それまで車で15時間、鉄道でも9時間ほどかかっていたソウルと釜山が4時間で行けるようになりました。農水産物をはじめ、流通システムなども大きく変わり、生産者と消費者を結ぶ産業の動脈の役割を果たしたといえます。高速バスも登場しました。韓半島を縦断する高速道路を建設しようという意志と努力だけで開通させた全長428キロの京釜高速道路の建設は、交通と自動車産業の発達をもたらしました。国土の効率的な利用を可能にし、全国に産業団地が開発されていきました。

京釜高速道路は「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる韓国の目覚ましい経済発展の礎となったのです。

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