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歴史

農村の近代化を導いたセマウル運動

2015-04-28

農村の近代化を導いたセマウル運動
1970年代、韓国の経済成長を導いた全国規模のキャンペーン「セマウル運動」が始まりました。「新たな街」という意味のセマウル。「私たちも豊かに生きてみよう」という、大きな目標をかかげてスタートしたセマウル運動は、貧しい暮らしを宿命のように考えていた韓国の農村に新しい息吹きを吹き込みました。

1970年の春。韓国は全国的な干ばつに見舞われました。田植えすらできないほどでした。4月22日、政府は干ばつ対策を講じるための会議を招集しました。この会議で朴正煕(パク・ジョンヒ)大統領は、繰り返される災難を解決する根本的な対策として農村再建運動を提案し、これがセマウル運動の発端となりました。誠実に働く「勤勉」、自らを助けるという意味の「自助」、力を合わせる「協同」、3つの精神をスローガンとしてかかげたセマウル運動の最初の一歩は、農村の生活環境を改善することでした。

セマウル運動が始まった1970年代始め、韓国の農村の家屋の8割は草屋で、電気が使える家は2割、道路が整備されているはずもなく、車が行き来できる農村は全体の3割に過ぎませんでした。本格的に展開され始めたセマウル運動によって、韓国の農村は活気づきました。住民たちはセマウル運動を象徴する緑色の帽子をかぶって、草やワラで葺いていた屋根をスレート屋根に変えたり、曲がりくねった狭い道を整備したりするなど積極的にセマウル運動に参加しました。

農村の生活環境を改善する事業は大きな成果を挙げました。1972年、韓国政府が農村の屋根の改良や道の整備に投資した金額はおよそ92億ウォン。延べ6,780キロの道と7,300以上の河川が整備されました。セマウル運動の環境改善事業によって変わった農村の様子に刺激され、一部では住民がお金を集めて道を整備し、橋を架ける姿も見られるようになりました。こうした動きに注目した韓国政府は、セマウル運動の成功は指導者の力量にかかっていると判断、町ごとに男性1人、女性1人をセマウル運動指導者として選びます。セマウル運動指導者には「祖国近代化の騎手」という称号とともに産業勳章が贈られました。そして、政府の期待どおり、セマウル運動の指導者たちは地域住民の参加を導きだす原動力となりました。

農村の生活環境改善が進められて2年が経った1972年、韓国政府は、今度は農村の所得増加に取り組み始めます。農村には肥料を大量生産するための施設が設けられ、野菜や果物などを協同で栽培、流通するシステムも造られました。また、統一稲という、新しい品種の稲も普及されました。この稲は収穫量が多く、早めに田植えをすると二毛作もできたため農村の暮らしも良くなりました。さらに、農村の近くにセマウル工場を建て、仕事のない農民も働くことができました。セマウル運動が始まった1970年、都市の家庭の67パーセントに過ぎなかった農村の所得は4年後の1974年には都会を上回るようになります。

農村におけるセマウル運動が成果を挙げると、セマウル運動は都市や工場にまで広がりました。都市で展開されたセマウル運動は環境改善よりは意識の改善に重点を置いていました。節約と貯蓄を強調し、健全な消費を促しました。70年代にあった2度のオイルショックの影響もあり、賢い消費と節約を強調したのです。また、社会秩序の確立や厚生福祉事業なども都市のセマウル運動の一環として進められました。

「私たちも豊かに生きてみよう」というスローガンのもとに繰り広げられた韓国のセマウル運動。「勤勉」、「自助」、「協同」という3つのセマウル精神は、韓国の経済発展を導く原動力となり、成功した農村開発のモデルとして、世界に紹介されています。

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