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歴史

圓光

2010-10-22

<b>圓光</b>
新羅の高僧、圓光(ウォングァン)。
その生涯については多くの謎に包まれています。
古代の歴史書「三国遺事」には中国のいろいろな文献を引用し、圓光が99歳あるいは84歳で死亡したなどという記録があり、もう1つの歴史書「三国史記」には真平王11年(589年)3月に 中国の陳に入り仏法を探求したという記録しかありません。
新羅時代に貴族の子弟で結成された組織である花郎(ファラン)について書かれた「花郎世記」の著者の金大問(キム・デムン)は、この本の中で自分の叔父でもある 圓光について、その出生の秘密についてふれています。
それによると、真興王に嫁にいった王族の姫が、花郎の初代首長であった青年と恋に落ち、二人が駆け落ちして生まれた息子が 圓光だったというのです。

正確な出生年は分かりませんが、13歳で出家したといい、圓光が中国に留学に旅立ったのは 三国遺事に出てくる真平王11年であると見られており、このとき、 圓光は34歳だったと推定されます。
当時彼はすでに道教と儒教を学び、教典と歴史書を研究して 新羅の中ではすでに大きな名声を得ていました。
しかし自らを井の中の蛙だと思った圓光は より広い学問の世界をめざして中国へと留学します。
それまで典籍(書物)を読めばそこに理致があると考えていた圓光は 中国の仏教寺院である高僧の法話を聞き大きな感銘を受けます。
そして仏の教えの書かれた経典を読み始め悟りを開きます。
圓光は真平王22年(600年)に新羅に帰国しますが、この時には王がわざわざ出迎えたといいます。
帰国後、 圓光は新羅に大乗仏教を根付かせようと努力します。
王族や貴族に新しい仏教知識を伝える一方で、一般大衆には 難しい用語を使わずに 分かりやすい言葉で布教しようとしました。
人々に仏教を超えて、人の生きる道理を教えたのが「世俗五戒」です。

 事君以忠(忠をもって君に仕える)
 事親以孝(孝をもって親に仕える)
 交友以信(信をもって友と交わる)
 臨戦無退(戦いに臨んでは退くこと無く)
 殺生有擇(殺生をするも選んですべし)


またこの世俗五戒は、花郎の教えでもありました。

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