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歴史

申乭石

2010-12-10

国が日本に侵略されようとしていた朝鮮末期、義兵と言う名の民兵が立ち上がりました。
そしてその中には、平民という身分にもかかわらず義兵の長として多くの人々のリーダーとなった申乭石(シン・ドルソク)がいたのです。

申乭石は1878年11月3日、現在の慶尚北道(キョンサンブクド)盈德(ヨンドク)に生まれます。
ここは1870年に東学教徒と農民が「李弼濟の乱」を起こした、いわば農民運動の本拠地のような地方でした。そのため申乭石も幼い頃から自然と反封建、農民運動に関心を持つようになります。
1895年、日本による「明成(ミョンソン)皇后暗殺事件」が起きると、彼は義兵を組織し、抗日武装闘争を始めます。まだ18歳という若さでしたが、 申乭石は故郷の盈德で仲間と共に義兵を立ち上げ、100人あまりの義兵を率い日本軍と戦ったのでした。
しかし兵力と武力にまさる日本軍の前に撤退し、その後10年間は、全国各地をまわりながら次なる義兵活動に備えます。

彼が歴史の表面に浮上するのは1906年のことでした。
すでに1904年に韓日議定書が結ばれ、国土は日本の軍事基地化していました。
そして1905年には外交権の剥奪と朝鮮総督府の設置を柱とする乙巳条約(第2次日韓協約、日韓保護条約)が結ばれています。

これに怒った申乭石は仲間とともに農民300人を集めて義兵を立ち上げます。
当時の義兵は両班や儒生などが主流を占めていましたが、彼は両班からもその指導力を認められ、寧陵義兵長となり抗戦を始めます。
また彼の父は土地や家を処分し、武器や軍糧を整え彼の義兵活動を支援します。
申乭石は太白山脈を中心に、日本軍の駐屯地、日本人の集団居住地、日本が朝鮮から略奪した農産物を運ぶ船舶などを目標に攻撃を加えました。
日本軍は新式の武器を使い義兵を捕らえようとしましたが、義兵たちは山脈地帯という地形を利用し、ゲリラ攻撃を続けました。
この当時、申乭石のことを人々は「太白山の虎」と呼んだものでした。
そして平民出身の申乭石の活躍は、一般の農民の抗日民族意識を高揚させていきます。
しかし1908年、彼は日本軍が彼にかけた賞金に目のくらんだ部下の裏切りにより殺害されてしまいます。30歳でした。

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