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歴史

乙巴素

2011-03-25

<b>乙巴素</b>
三顧草廬、日本では三顧の礼という言葉があります。
諸葛孔明を得るために劉備が直接三度も諸葛孔明の藁葺き屋に足を運んだという逸話にちなんだ言葉です。
そしてこのような逸話は高句麗(コクリョ)の宰相乙巴素(ウルパソ)にも伝わっています。
高句麗の故国川(コグクチョン)王は農夫だった乙巴素を宰相に登用し、世の中を驚かせました。

2世紀、 鴨綠(アプロク)谷 左勿村(ジャムルチョン、現在の平安北道)出身といわれる乙巴素は、高句麗第2代王の瑠璃(ユリ)王の宰相だった乙素の子孫です。
名門家の出身で知恵深い性格でしたが、彼は畑を耕し隠遁生活をしていました。

高句麗は第9代王の故国川王の時代になり、大きな問題が起きていました。
外戚と呼ばれる王后の親族である 於畀留(オビリュ)と 左可慮(ジャガリョ)が権力を我が物顔にし、ついには191年、故国川王13年に反乱を起こしたのでした。
武芸に勝れ、長身で頑強だった故国川王は反乱を簡単に鎮圧しましたが、その後、王家に権力が集中することを警戒し、全国から優秀な人材を探そうとしました。
このときにもっとも多くの推薦を受けたのが「アンユ」という人物でしたが、「アンユ」は、国の危機を救う人物として乙巴素を推挙しました。
王はこれを聞き入れ、乙巴素に現在の閣僚にあたる「中畏大夫(チュンウェデブ)」の官職を与えようとします。
しかし驚いたことに乙巴素は「私は愚かな怠け者なので、王様の尊厳な命令に従うことはできません。どうか賢い者を選び、高い官職を与え、大事を図れるようになさってください」と、王の命を断りました。
これは、田舎に引きこもり畑を耕していた農夫が政治をしても貴族の反発を得るだけで、閣僚職ではその意を十分に果たすことができないという考えからでした。
そんな乙巴素の考えを読み取れなければ、これは実に不躾な断りようです。
しかし人を見る目を持ち合わせていた故国川王は乙巴素の意を汲み取り、彼に宰相の地位を与えました。
もちろん一介の農夫を宰相の座につけたのですから、貴族からは激しい反発が起きました。
しかし王の厚い信頼を受けた乙巴素は着々と国政の改革を成し遂げていきます。
教育制度を改編し、不正腐敗の防止、人材選抜の活性化、経済政策の改革などを通じて政治の建て直しに成功します。
特に故国川王16年に施行された賑貸法は世界初の実用福祉政策でした。
これは3月から7月に国民に穀物を貸出し、収穫の終わった10月に返してもらう制度で、この制度により農民は安心して農耕に従事することができました。
そして農業の安定は、国民の暮らしの安定に結びつき、高句麗は豊かな強国へと発展していくのです。

乙巴素は203年に亡くなり、名宰相の死に国中が涙にくれたと史書にはあります。
武の王国として知られている高句麗ですが、この国の真の強さはこういう能力中心の人材登用にあったのではないでしょうか。

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