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歴史

羅蕙錫

2011-04-15

<b>羅蕙錫</b>
韓国初の女性西洋画家で小説家、そして啓蒙運動家でもあった羅蕙錫(ナ・ヘソク)は激動の人生を歩んだ情熱の女性です。
1896年4月18日、富裕な官僚の娘として京畿道(キョンギド)水原(スウォン)に生まれた羅蕙錫は、その芸術家としての才能で早くから頭角を現しました。
1913年に高校を卒業すると、17歳の彼女は兄の勧めで日本に留学し、東京女子美術専門学校の西洋画科に入学します。
韓国女性としては初めて日本で美術を学ぶ留学生となったのですが、この時から彼女の人生には「最初の」という修飾語がつき始めます。
留学時代、彼女は韓国の良妻賢母の女性像を否定する「理性的な夫人」という文章を雑誌に書き、モダンガールの代名詞となります。
そして大学卒業後はソウルに帰国し、美術の教師をしながら、新女性を主人公とした短編小説「瓊姬」を発表し、韓国最初の女流作家となります。
さらに1919年には3.1独立運動に参加し、独立運動家としても活動します。
翌1920年には前途有望な外交官で、前妻と死別した金雨英(キム・ウヨン)と結婚します。
彼女は結婚に際して、夫となる金雨英に当時としては破格の約束をさせました。
生涯自分を愛し続けること、そして自分が絵を描くことを妨害しないこと。
彼女の個性と才能のよき理解者だった夫の金雨英は、妻の芸術活動を応援し、彼女は結婚の翌年の1921年3月に京城日報社来青閣で、韓国女性としては初めての油絵の個展を開き大成功をおさめます。
その後も「朝鮮美術展覧会西洋画部」に毎年作品を出品、入賞します。
さらに1927年には夫とともに世界旅行に出かけます。
これも韓国女性としては最初の世界旅行でした。
夫とともに渡った3年間のヨーロッパ旅行は彼女に新たなインスピレーションを与えますが、同時に、夫がパリを離れた間に、そこで出会ったカトリックの指導者、崔麟と彼女は恋に落ちます。
2人は3・1運動の時に共に投獄した経験があり、趣味も多彩で芸術にも造詣の深い崔麟に彼女はどんどん惹かれていきます。
しかし2人の関係は遠く祖国にまで知れ渡るようになり、結局、 羅蕙錫は1931年、夫の金雨英と離婚します。
しかし彼女は離婚後も活発に絵を描き続け、1931年には第10回朝鮮美術展覧会で特選に入選します。
また1934年には雑誌に「離婚告白書」を発表し、自分の家庭生活と離婚までの経緯を赤裸々に告白すると共に、家父長制度と男性中心の社会慣習に強い批判を加えます。
しかしそんな彼女の生き方は当時の社会では受け入れらず結局、1948年12月10日、看取る人もいないまま一人寂しく息を引き取ります。

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