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文化

ソウルの中心、明洞(ミョンドン)物語

2012-02-14



ソウルの観光スポットとして知られる街、明洞(ミョンドン)はファッションとトレンドの街、ショッピングの街として知られています。明洞を行き交う人の数は1日ざっと130万人あまり。韓流ブームで外国人観光客も多くなっていて、小さな店に入っても、いろんな国の言葉が飛び交っています。

今は観光とショッピングの街としてにぎわっている明洞ですが、半世紀だけ時間をさかのぼっていくと、まったく別の姿が見えてきます。当時の明洞は文化芸術の中心だった街で、韓国戦争で疲れはてた韓国の人たちをいやしてくれました。今、ソウル歴史博物館ではその頃の明洞を紹介する「明洞イヤギ(明洞物語)」の展示会が開かれています。

明洞は日本によって植民支配されていた時代に近代化が進められた地域です。韓国が独立した後、1950年代から60年代にかけての明洞には詩人や小説家、画家、音楽家などのアーティストが集まって、崩れかけた居酒屋や素朴な喫茶店で、好きな詩や絵を書き、甘いメロディを口ずさみ、アーティストたちの街、文化芸術の街と呼ばれていました。その後も、ショッピング、ファッション、観光の街、そして韓流の中心と呼ばれる現在に至るまでいろんな名前で呼ばれてきましたが、いつの時代も明洞がソウルの中心であることだけは変わっていません。明洞は時代の新しい流れをどこよりも早く受け入れるスポンジのような空間だったといえます。



企画展示「明洞イヤギ」は、明洞の伯爵、明洞の市長の呼ばれたほど、明洞が好きだった1人の新聞記者の視線をたどって明洞の話を紹介しています。

「明洞イヤギ」は文化芸術のロマンがクライマックスを迎えた1950年代と60年代の明洞の様子から始まります。展示会場に入ると、居酒屋の「慶尚道(キョンサンド)ジプ」などが再現されています。この居酒屋はパク・インファン詩人の代表作「歳月が流れたら(세월이 가면)」が生まれた場所です。この居酒屋でお酒を飲みながら詩人が詩を書き上げると、いっしょにいた作曲家がその場で曲をつけ、いっしょにいた声楽家が歌い出したという有名なエピソードが残っています。「歳月が流れたら」はその後、1970年代に大ヒットし、明洞のシャンソンと呼ばれました。展示会場全体にこの曲が流れています。戦後の貧しい時代、芸術家たちにとって明洞は文学と芸術を論じることがきる空間でした。くだけた雰囲気の居酒屋や音楽が流れる喫茶店で韓国の文学と芸術は成長していったのです。

2番目の展示空間には1970年代から80年代の明洞が紹介されています。この頃の明洞には小劇場が登場します。小さな規模の劇場では、それまで見られなかったジャンルの演劇が舞台にのせられ、クラシックギターと甘いメロディのコンサートが開かれ、若者たちを魅了しました。また、最新スタイルのファッションも登場し、「明洞に行けば、だれでもおしゃれな西洋の女性に生まれ変われる」と言われていたほどでした。



しかし、明洞の思い出は華麗で美しいものばかりではありません。1980年代、民主化を叫ぶ若者たちは明洞で大規模なデモを繰り広げ、明洞の通りに毎日のように催涙ガスが立ち込めていた時期もありました。そして、民主化に向ける情熱が実現した頃、明洞の様子も変わりました。芸術家たちがたむろしていた居酒屋が消え、音楽喫茶店があった所にはおしゃれなカフェがオープンしはじめます。そして、明洞の中心にあった国立劇場が南山(ナムサン)に移され、小劇場も見られなくなりました。

「明洞イヤギ」の最後の展示は現在の明洞を紹介しています。いろんな国の人たちが交わるグローバルな街に生まれ変わった明洞。ファッションとショッピングの街というイメージが強くなった明洞には懐かしい話がたくさん残っています。そして、今、文化芸術の街、明洞のイメージを守っていくため、明洞芸術劇場などが新しくオープンしています。

企画展示「明洞イヤギ」を通じて、明洞が聞かせてくれる話に耳を傾けてみませんか。

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