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歴史

趙芝薰

2012-07-19

趙芝薰
天才詩人・趙芝薰(チョ・ジフン)は1920年12月3日、慶尚北道(キョンサンブクド)英陽(ヨンヤン)に生まれました。
本名は趙東卓(チョ・ドンタク)といい、幼い頃から祖父の趙寅錫、父の趙憲泳から漢学と節義を習い、英陽普通学校3年を終えた後、1941年、21歳で恵化専門学校(現在の東国大学)の文科を卒業しました。
伝統を重視する両班の家門でしたが、9歳から文章を書き始め、童謡を作ったり、当時はなかなか手に入らなかった「ピーターパン」、「青い鳥」、「幸福な王子」のような童話を読みながら西欧の文化にも触れる機会を得ました。
そんな彼にとって詩や小説を書くことは当然のことでした。
1934年頃から詩を書き始め、1936年にソウルに上京してからは初期作の「春日」「浮屍」などを書き、本格的に詩の世界に飛び込んでいきます。
そして1939年4月、文章誌に韓国の女性像を表現した詩「古風衣装」を発表、文壇へのデビューを飾ります。
同年11月に「僧舞」、1940年に「鳳凰愁」を相次いで発表し、韓国の伝統文化を優雅で繊細な文章で詠っていきました。

そして1942年以降、朝鮮語学会の原稿を整理しながら国語学の研究に没頭しますが、同じ年の日本による民族抹殺政策により多くのハングル学者が弾圧、投獄される中、彼も検挙されて、落郷することになります。
しかしその年、彼には新しい出会いもありました。
詩人、朴木月(パク・モクウォル)と出会い交流を重ねていきます。
そして1946年に朴木月、朴斗鎭(パク・ドゥジン)とともに韓国を代表する叙情詩集「青鹿集」を発表しました。

その後も詩人として多くの詩集を発表するとともに、ハングル学界の国語教本編集員として最初の国語、国史教科書を編修したり、高麗大学の教授として多くの人材を育てるなど、多方面にわたる活動を続けました。
また李承晩(イ・スンマン)大統領の自由党の時代にも、朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領の軍事政権時代にも、彼は正義を主張する詩人として、そしてソンビとして生き抜いたのです。
趙芝薰は1968年5月17日、他界しました。48歳でした。

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