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歴史

召西奴

2013-01-10

召西奴

女性大統領の誕生した韓国ですが、実は韓国には国を二つも建国した女傑がいました。
ドラマ「朱蒙」にも登場した召西奴(ソ・ソノ)です。彼女は朱蒙が高句麗を建国する際にその片腕となり確信的な役割を果たし、建国後には自分の息子の 沸流と溫祚を連れて南下し、 溫祚が慰禮城に百済を建国するのを助けたのでした。

召西奴がいつ生まれたのかは伝わってはいませんが、 夫餘の部族、桂婁部の姫として生まれました。父王は延陀勃、そして同じ夫餘の部族、北夫餘の王である解扶婁の孫の優台と結婚し、沸流と溫祚の二人の息子を産みました。しかし夫の優台は早くに亡くなり、一人で二人の息子を育てます。そんな彼女の前に一人の男性が現れます。高句麗の始祖となる東明聖王、朱蒙です。朱蒙と召西奴は、 召西奴が8歳年上で、かつ二人の子供をもつ未亡人でしたが恋に落ち、そして結婚します。朱蒙は彼女と結婚したことで桂婁部を基盤にして兵を揃え、民心を得て紀元前37年、高句麗を建国します。そして召西奴は高句麗の王妃となったのです。
高句麗建国後にも召西奴は土着勢力の分裂を防ぐなど、朱蒙の力となり、そのおかげで朱蒙は高句麗の国土を広げていきます。

高句麗建国19年目の年、朱蒙の北夫餘時代の妻、禮氏と彼女の生んだ息子孺留が現れます。
すると朱蒙は禮氏の生んだ孺留を自分の後継者に指名し、禮氏を第1夫人にし、 召西奴は第2夫人にされてしまいます。このときの沸流と溫祚の悲痛な心情が歴史書にはこんな風に書かれています。

最初、大王(朱蒙)が夫餘での難を避けてここに逃げて来た時には
母(召西奴)が財産を傾け、国の建国を助け、多くの努力をした。
今や、大王はこの世を去り、国は 孺留のものとなり
私たちは魚の目のような存在になってしまった。
いっそのこと母上を伴い、南に行き、土地を選び新しい国を建てようか。

このように深く傷ついた 召西奴、母子は起源前19年、10人の家臣とその一族、そして自分の部族の桂婁部の多くの民とともに南に下りました。沸流は海辺に住みたいと彌鄒忽 に行き、溫祚は起源前18年に家臣と力を合わせて河南地域に城を築き、ここに国を建てます。そして城の名前を慰禮城、国の名前を十済としました。国の名前を十済としたのは、10人の家臣と国を築いたためですが、その国が後の百済です。一方、沸流の選んだ彌鄒忽の地は、湿気の多い土壌で、浸水も多く、民衆は沸流が亡くなるとすぐに慰禮城に戻ってきました。そして召西奴は息子の建国した国がだんだんと大きくなるのを見ながら、起源前6年に亡くなります。

後の歴史家は彼女のことを「朝鮮の歴史上唯一の創業女大王であるだけでなく、高句麗と百済の二つの国を建国した人物」であると、激賞しています。

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