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歴史

李奉昌

2013-01-17

李奉昌

日本の植民地時代に祖国の独立のために天皇の行列に爆弾を投げつけた独立運動家がいました。李奉昌(イ・ボンチャン)です。

李奉昌は1900年8月10日、ソウル龍山区に生まれます。その家は朝鮮第3代王の太宗の次男、
孝寧大君を祖先とする名家で、父、 李鎭奎の次男として生まれます。
11歳の時にソウルの文昌普通学校に入学し、15歳で卒業しますが、家庭の経済状況が急激に悪化しそれ以上は進学できずに、日本人が経営する菓子店に就職します。しかし日本人店主の迫害により辞めることになります。
その後、1918年に満州に渡り南満州鉄道株式会社の汽車運転研修生となった李奉昌でしたが、ここでも日本人職員から「朝鮮人」と言われて差別されます。特に韓国人と日本人の間の賃金格差と昇給面での差別を全身で体験した李奉昌は「これもすべて日本に祖国を奪われたために起こったこと」だと考えます。
そして1924年、抗日団体の錦町青年会を組織します。彼はその後「敵に勝つにはまず敵を知るべし」と考え、日本に渡り東京、名古屋、横浜などを転々として日本語を身につけ、さらに日本人の養子となり木下昌藏という日本名を名乗るようになります。そして商店の職員、鉄工所の工員、雑役婦などをしながら日本人の生活になじんでいきます。
このように日本に暮らしながら、さらに朝鮮人に対する差別を実感した李奉昌は1930年12月中国の上海に渡り、本格的に独立運動に関るようになります。しかし最初は彼の情熱は受け入れてもらえませんでした。木下という日本名を名乗る韓国人、李奉昌に対して当時の上海臨時政府の面々が疑いの目を向けたのも当然といえば、当然のことでした。そんな彼を
金九は何度かの面談の後に認め、その真意を受け止め、李奉昌の計画する日本天皇爆殺計画を推進します。準備には1年がかかりました。金九が資金と手榴弾を準備する間、李奉昌は日本人の経営する印刷所や楽器店で働きながら、その日を待っていました。そして1931年
12月13日、安重根の末弟の安恭根の家で両手に手榴弾を持ち、太極旗を背景にしてその悲壮な覚悟を披露します。

私の年、31歳
これから31年をさらに生きたとて今よりもより良い快楽はないことだろう
これからは祖国の独立と自由を回復するために
世の中を驚かすような聖業を成し遂げるのだ。

そして手榴弾を両手にもって記念撮影をした李奉昌は12月17日、日本に渡り翌年の1月8日天皇に向けて手榴弾を投げつけたのでした。現行犯でその場で逮捕された彼は1932年9月30日に死刑を宣告され、10月10日に市谷刑務所で殉国します。

彼の短い生涯は終わりましたが、天皇への爆弾テロのニュースは世界的に大きな波紋を巻き起こし、海外にいた独立運動家たちが続々と上海に集まってきました。そして同じ年の4月29日、今度は上海で尹奉吉が爆弾テロを行いました。
李奉昌の遺骨はその後 金九により、 ソウルの孝昌公園に埋葬されました。


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