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歴史

安昌男

2013-01-24

安昌男
最初の韓国人パイロット、安昌男(アン・チャンナム)は日本の植民地時代に韓国人で初めて空を飛び人々に大きな夢を与えた人物です。

1900年漢城西北村で医官の息子として生まれた安昌男は4歳の時に母を亡くし、10歳で父をも亡くします。 そしてそれ以上学費を出してくれる人がいなくなったため、渼洞小学校を卒業後、入学していた徽文高等普通学校を中退し、1919年に日本に渡りました。
徽文高等普通学校時代にアメリカ人のアート・スミスの曲芸飛行を見て、空を自由に飛びたいと思った安昌男は日本の大阪自動車学校を経て、赤羽飛行機製作所で飛行機の製造方法を習った後、1920年、小栗飛行学校に入学し操縦術を学びます。飛行学校の履修過程は6ヶ月でしたが、入学後わずか3ヶ月で卒業、卒業と同時に母校の教師として採用されるなど、彼は抜群の操縦技術を身に付けました。そして1921年5月、日本の航空局が実施した第1回飛行士免許試験に韓国人としてはただ一人受験し、見事、1等飛行士免許を取得します。
当時日本の新聞のインタビューに答えて彼は「朝鮮に帰り飛行学校を作り、朝鮮の若者に飛行術を教えるのが将来の抱負」だと述べ、「近いうちに祖国を訪れ飛行したい」と決意を語りました。しかし1919年3月1日の3・1独立運動後、韓国人が大勢集まることを警戒した朝鮮総督府は1年半後の1922年12月になりようやく安昌男の祖国での飛行を認めたのでした。すでに前の月に東京と大阪間の郵便大会飛行に参加し最優秀賞を受賞していた安昌男は12月10日、ヨイ島で歴史的な飛行を行ったのでした。
このとき、彼の飛行を見るために30万人の京城の人口のうちの5万人がヨイ島に集まったというのですから、その人気のほどが分かります。飛行機の本体に韓国の地図を鮮明に描いた金剛号が空高く飛び上がると人々は熱い拍手を送ったのでした。彼の飛行は人々に大きな希望と自負心を与えたましたが、安昌男の心中は複雑な思いがあったようです。彼は以後独立運動に身を投じる決心をし、1924年12月中国に渡ります。そして大韓独立共鳴団に加入し、韓国人飛行士官学校の設立を推進し、飛行学校の設立のために国内外に派遣された団員に当時としては巨額の600ウォンを提供したのでした。しかし飛行学校設立を見ることなく、1930年4月、飛行訓練中に墜落し安昌男は満29歳の短い生涯を閉じたのでした。


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