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歴史

洪大容

2013-02-07

洪大容
朝鮮時代、大多数の両班が科挙の試験に合格することを目標に生きていた18世紀に、
一人、望遠鏡を手に空を眺めていた両班がいました。幾何学を基盤に宇宙を天文学的に理解しようとした朝鮮時代の科学者、洪大容(ホン・デヨン)です。

1731年陰暦3月1日、忠清道に生まれた洪大容は朝鮮社会の中心で生まれた人物です。彼の属した家門、南陽洪氏は代々政界に進出した老論の核心として、言うならば出世の保証された血統でした。しかし洪大容は家門の伝統とは違い純粋学問の道を選びました。10歳から古学に興味を抱いた洪大容は石室書院に入門し、数学、天文学など科学分野の学識を身につけ、老荘、仏教、陽明学などにも関心をもち柔軟な思想体系を身に付けていきます。そして北学派の実学者である朴趾源, 朴齊家などと親交を結び、父が羅州に赴任していた1759年、羅州の実学者 羅景績と出会い天文学に関心を持つようになります。当時、羅景績は70歳を越していましたが、彼が作った自鳴鐘の精巧さに見せられた洪大容は羅景績とともに自鳴鐘や
渾天儀を製作していきます。特に渾天儀は水を使って動かしていたそれ以前の渾天儀とは違い、機械時計を歯車で連結して動かすというもので、天体の運行とその位置をより正確に測定することができました。さらに洪大容は自費をだして私設観測所の籠水閣まで作りました。

彼の科学的な探求精神はさらに西洋の文物に触れることで広がっていきます。1765年、朝鮮の外交使節団をしていた叔父の洪檍の個人秘書の資格で北京に3ヶ月ほど滞在した洪大容は清の学者らと親交を結び、中国の発達した文物に触れ、さらには天主堂(カトリック教会)を訪れて西洋の宣教師を通じて西洋の進歩した科学に触れます。彼の思想的な成熟に決定的な影響を与えた北京訪問は、その後、見聞録の「燕記」そして科学思想を描いた「 醫山問答 」という二冊の著書を産みます。特に科学小説「 醫山問答 」では「地球は一日に一度ずつ地転し、昼と夜が生じる」という地転説が登場し注目されます。

東洋の伝統的な自然科学に西洋から流入した新しい科学的な成果を結合させ地球地転説や宇宙無限論などを主張、18世紀の朝鮮の北学派を先導した洪大容は1774年、43歳で初めて官職に就き、当時はまだ王になる前の正祖を教え、以後、司憲府監察, 泰仁縣監, 永川郡守などを勤めて1783年、53歳で亡くなりました。
生涯を学問と自然の探究に費やした朝鮮時代の科学者、洪大容の名前は2005年、韓国の研究陣が発見した小惑星の名称ともなっています。木星と火星の間にある小惑星「洪大容」は
彼の科学的な思想を、その名前とともに永遠に記憶するものです。

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