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コリア70年 離散家族をさがします

今から32年前の1983年6月30日の夜。KBSは特別生放送「離散家族を探しています」を放送しました。韓国戦争が勃発してから33年が経った1983年。KBSの特別番組は戦争で離ればなれになり、生死すら分からないまま33年を生きてきた人たちに家族を探す機会を提供するために企画された番組でした。

放送を開始して30分が経った頃、最初の離散家族が再会を果たします。互いの名前を呼びながら抱き合って号泣する姿に離散家族だけではなく、テレビに見入っていた全国民が涙しました。「離散家族を探しています」は、当初、韓国戦争勃発33年と休戦30周年を迎えて企画された1回限りの特集番組でした。しかし、放送が始まると、家族を探したいという問い合わせの電話が鳴り続け、放送局の前には大勢の離散家族が押し寄せました。家族に会いたいという離散家族の叫びに応えるため、100分の予定だった放送は何度も延長されました。予想をはるかに越える離散家族の参加で、KBSは他の番組をキャンセルし、アナウンサーを交代しながらリレー式の生放送で進めていきました。

離散家族の特集番組が成功した理由はいろいろありますが、一番大きかったのはカラーテレビの普及だったといえます。33年前に離ればなれになったため、探している家族の特徴といっても、首の後ろのホクロとかひじの傷痕など、ごく小さな手がかりしかない場合がほとんどでした。カラーテレビではそんな小さな手がかりも確かめることができました。もう一つはKBSの地方ネットワークでした。地方にいる家族もソウルまで来る必要がなく、画面を通じて再会することができました。

1950年に勃発し、3年間続いた韓国戦争は南北合わせて1千万の離散家族を生み出しました。韓国戦争が終わって18年が経った1971年、大韓赤十字社が北韓に離散家族の再会を提案しましたが、実現しませんでした。それからさらに12年が経った1983年。KBSは韓国内の離散家族を対象とした特集番組を企画したのです。放送開始と同時に、長い間、胸の奥に秘めていた離散家族の記憶、分断の傷が一気に爆発しました。

離散家族を探す放送が始まると、KBSの壁だけではなく、放送局の前にある現在の汝矣島(ヨウィド)公園も家族の名前や情報が書かれた10万枚あまりの紙でいっぱいになりました。「離散家族を探しています」の放送に申し込む人の数に比べ、実際に家族に再会した人は限られていました。そのため、たくさんの人が放送局の近くで野宿をしながら、別れてしまった家族に会うために待ち続けました。現在の汝矣島公園、当時の汝矣島広場に集まった離散家族には全国各地から激励と声援が送られました。大韓赤十字をはじめ、さまざまな団体が、野宿をしながら家族との再会を待つ人たちのために食事を作ったり休憩所を設けたりしました。

1983年6月30日に始まった「離散家族を探しています」はその年の11月14日まで、138日間、時間に換算すると453時間45分の生放送で続けられました。そして、この番組を通じて10万件を越える申し込みがあり、5万3千536家族が出演、このうち、1万189家族が生き別れた家族と再会することができました。

1983年、KBSが企画した番組「離散家族を探しています」は30年以上の歳月も断切ることができなかった家族の絆と意味を顧みる貴重な時間となり、涙と感動、そして奇跡を見ることができました。しかし、その涙と感動は二度と起きてはならない歴史の悲劇でもあるのです。