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特別番組

韓国戦争休戦60年特別企画番組「興南から巨済へ」

2013-07-26

7月27日は、韓国戦争の休戦60年目の日です。休戦60年にちなんで、北韓の興南の港から船に乗り、韓国の巨済まで命懸けでたどり着いた避難民たちの足取りをたどります。
1950年6月25日、北韓軍の侵攻で始まった韓国戦争。その年の9月15日、国連軍の司令官、マッカーサ将軍の仁川(インチョン)上陸作戦が成功し、韓国軍と国連軍は、北韓を流れる川、鴨緑江(アムノクガン)まで北へ進むことができました。しかし、135万に達する中国義勇軍が韓国戦争に介入して形勢が逆転、韓国軍と連合軍は再び南へ後退するしかありませんでした。




1950年11月29日から12月始め、国連軍は西部前線と東部前線から撤収を始めました。軍人のあとを追う避難民は数えきれないほどだったといいます。北韓の興南(フンナム)や咸興(ハムフン)、遠い清津(チョンジン)から興南埠頭に集まった10万あまりの避難民はひたすら自分を乗せて南に向かう船を待ち続けました。避難民がひたすら船を待ち続けたのは軍の撤収作戦が避難民のことを考えていなかったからでした。撤収作戦を指揮するアメリカ軍は避難民の救済を求める韓国軍の意見をなかなか受け入れませんでした。しかし、最後まで武器より人の命が大事だと主張する韓国軍の姿に心を動かされ、撤収する装備を最小限に押え避難民を船に乗せることを決めました。

韓国軍と国連軍の輸送船と戦車揚陸艦が動員され、1950年12月19日、避難民の乗船が始まりました。1950年12月20日、韓国の釜山を出たアメリカの貨物船、メロディス・ビクトリー号も興南港に入ってきました。定員千人あまりのこの船には1万4千人の避難民が乗り込みました。この乗船記録はギネスブックに載るほどで、多くの避難民を助けた奇跡の船と呼ばれています。



1950年12月24日まで行なわれた興南撤収作戦で撤収した人は韓国軍と国連軍を合わせて軍人10万5千人、避難民9万8千人あまりでした。そして、クリスマスの日、メロディス・ビクトリー号は韓国の南部、巨済島(コジェド)の港、長承浦(チャンスンポ)にたどり着きました。当時、巨済島の人口は10万人足らず。軍人と島にあった捕虜収容所の捕虜まで含めると、島の人口は17万3千あまり。のどかだった島に、さらに15万人の避難民がやって来たのです。島の住民たちの暮らしぶりは決して豊かだったとは言えませんが、島の人たちは避難民を家族のように温かく迎え入れてくれました。

北韓の人たちが巨済島に入ってきてから、島の風景に変化が起き始めました。避難民が定着してから、島には韓国初の孤児院である愛光院(エグァンウォン)など、様々な施設が作られました。巨済には規模の割に学校が多いのですが、これも避難してきた子どもたちのために建てられたものです。島の人たちは避難民を温かく受け入れ、また、避難民はたくましい生活力で島に活力を与えました。う。



今から60年あまり前、分断と戦争という大きな傷を負った避難民たちを温かく迎え入れた長承浦には、今、平和が満ち溢れています。しかし、韓国戦争はまだ終わっていません。今なお、休戦なのです。休戦60年を迎える今なお、家族と故郷を失った人たちの深い傷と悲しみは消えていないのです。に活力を与えました。う。


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