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特別番組

2014アジア大会開催地、仁川! グローバルハブシティを夢見る

2014-01-01



2007年4月17日、クウェートで開催されたアジアオリンピック評議会の総会。2014年アジア大会の開催地を決定するこの総会で、韓国の仁川(インチョン)が45票のうち32票を獲得、今年、2014年に開かれるアジア大会開催地となりました。

仁川が韓国の歴史に登場したのは今から2千年前に遡ります。しかし、現在の仁川という地名がつけられたのは西暦1413年のことでした。古代から仁川は海を通じて韓半島と世界を結ぶ役割を果たしていました。そんな仁川が、朝鮮時代末期、大きな試練を迎えます。

1875年、仁川の沖合い、江華(カンファ)水域に入ってきた日本の軍艦「雲揚号」と交戦した「雲揚号事件」がきっかけとなり、翌年、日本に有利な「江華島条約」が締結され、当時の韓国、朝鮮は何の準備もなく開港を迎えるに到りました。開港によって韓半島の新しい歴史を開くことになった仁川。開港に伴って、小さな港に過ぎなかった済物浦(チェムルポ)港が貿易港となり、1906年から、現在は仁川港と呼ばれる済物浦港の施設を拡張するため、埋め立て工事などが進められました。貿易港となった仁川港は、その後、世界各国の人と文物が交流し、韓国の西海岸全体の貿易を管轄し、国際通商を担う重要な役割を果たしました。のどかな漁村だった仁川の街には西洋風の建物が現れ、それまでに見たことも聞いたこともない制度や文物が押し寄せたのです。



近代的な文物を受け入れる窓口となり、活気にあふれていた仁川。しかし、1910年、日本が強制的に朝鮮を併合したあと、仁川はもう一度試練を迎えます。開港期とは違って、日本に国を奪われたあとの仁川港は国際貿易港ではなく、植民地の関門になってしまいました。貿易港としての活気を失った仁川には日本人のための施設、日本人のための環境が作られて、韓国人には疎外された都市に変わってしまいました。

1945年、日本による植民支配から解放され、仁川にも幸福の感動が満ちあふれましたが、それもつかの間。1950年に勃発した韓国戦争によって仁川はもちろん、韓半島全域に被害が及びました。すべての港湾施設が破壊されてしまった仁川。1960年代に入り、韓国政府は国を立て直すため輸出中心の工業化政策を打ち出しました。その一環として、原材料の輸入と完成品の輸出に有利な位置にあり、水深の浅い干潟を埋め立てて大規模な工業団地を作ることができる仁川に産業団地を造成することにしたのです。工業団地が作られ、高速道路や仁川港に第2ドックの建設などのインフラが構築され、仁川は韓国の輸出品全体の11パーセントを生産するなど、韓国戦争で崩壊した韓国の経済の再建を象徴する産業都市へと発展していきました。



1995年、京畿道(キョンギド)の一部地域を統合して広域市になった仁川は、韓国で3番目に人口の多い都市になりました。また、旧ソ連や中国との修交条約をきっかけに、灰色の工業都市、仁川のイメージを脱ぎ捨て、国際ビジネス都市に生まれ変わるための準備に取り掛かりました。2001年、仁川の永宗島(ヨンジョンド)に仁川国際空港が開港し、国際都市へと成長する基盤が作られたのです。北東アジアのハブ空港を目指す仁川空港の跳躍は国際ビジネス都市、仁川の発展を導く役割を果たしています。

また、仁川の松島(ソンド)国際都市は国連傘下の8つの機構をはじめ、13の国際機構の事務局を誘致するなど、仁川は世界にアピールできる国際ビジネス都市を目指して努力しています。韓国の近代化の関門であり、産業都市として発展してきた仁川は、今、北東アジアを代表する国際都市へと跳躍することを夢見ているのです。ここ仁川で、今年の9月19日、2014年アジア大会が開かれます。
仁川アジア大会は1986年のソウルと2002年の釜山(プサン)に次いで韓国で開かれる3度目のアジア大会です。2014年仁川アジア大会のスローガンは「平和の息吹き、アジア人の未来」、アジア大会を単純なスポーツイベントではなく、世界の平和と共存の意味を考え、グローバルハブシティ、仁川を紹介する舞台にしようという意味が込められています。

イギリスのエコノミスト研究所が発表した2025年までの仁川の成長潜在力は世界第2位。仁川は、2013年韓国最優秀都市にも選ばれています。どこよりも波乱に満ちた歴史を歩んできた都市、仁川は、今、グローバルハブシティ、国際ビジネス都市として第2の開港期を迎えているのです。

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