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歴史

大祚栄

2010-10-29

<b>大祚栄</b>
統一新羅とともに韓国の歴史の中での大帝国!
9世紀、当時の北東アジアの最強国であった唐から「海の東の旺盛な国」という意味の海東盛国と呼ばれたほど強力な国勢を誇った国、それが高句麗を継承した国、渤海(バルヘ)です。
668年に高句麗が新羅と唐の連合軍により滅亡すると、唐は高句麗の領土を占領し高句麗の流浪民10万人あまりを営州に移住させます。
祖国の滅亡と強制移住という暗く苦しい歳月が30年ほど過ぎた698年。
高句麗の流浪民を率いて白頭山の北東地域、高句麗の昔の領土に向かう英雄がいました。
大祚栄(テジョヨン)です。

大祚栄は高句麗の武将であった父、乞乞仲象の息子として生まれましたが、その正確な出生年度は伝わっていません。
ただ高句麗末期の戦時状況であったと推定されます。
そして高句麗の滅亡とともに営州に移住させられた大祚栄は、契丹が反乱を起こし、唐の注意がそちらに集中していた隙をつき、軍隊を起こし 流浪民たちとともに高句麗の地へと軍を進めます。
契丹の反乱を平定した唐の則天武后はすぐに大祚栄の後を負わせます。
それに対して彼は天門嶺で唐の軍隊を迎え撃ちます。
天門嶺の地形を細かく調査し、そこに1000を超える埋伏地(隠れ陣)を築き、そこに隠れて、唐の軍隊を待ち伏せしたのです。
この大祚栄の知略が20万の唐の大軍を打ち破ります。
5,00キロにわたる大遠征の末に、彼は698年、大震国の建国を宣布し、年号を天統とします。
高句麗が滅亡してから30年後のことでした。
高句麗の後裔が新しい国を築いたという話が伝わると、あちこちに散らばっていた高句麗の流浪民たちが続々と彼のもとに集まってきました。
そして713年には国号を震国から渤海に変えたのです。
このように強大国に成長した渤海は経済発展と文化創設にも力を入れ、その交易は遠くペルシアまで届き、首都は国際都市となっていきます。
しかし大祚栄の死後、貴族たちの権力闘争が激しくなり、渤海は結局926年に契丹により滅亡させられてしまいます。

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