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歴史

高宗

2010-11-12

朝鮮王朝500年の最後の王様であり大韓帝国の最初の皇帝である高宗(コジョン)。
彼ほど、その歴史的な評価の分かれる人物もいません。
1852年、興宣大院君、李昰應(イ・ハウン)の次男として生まれ、
跡継ぎのいなかった哲宗の後をつぎ
1863年に12歳の若さで王に即位します。
最初の10年間の1873年まで実質的な政権はその父の興宣大院君が治めていました。
その後、興宣大院君を退け、高宗自ら政権を握るようになってからも、
今度は妻の明成皇后が政治的な実権を握るようになり、
高宗は父と妻との間で右往左往するだけの無能な王という評価を受けてきました。

さらに1866年と1871年のフランスとアメリカによる侵入、
朝鮮の領土を虎視眈々と狙う日本、中国、ロシアの勢力、
1894年に全国を吹き荒れた東学農民革命の嵐、
そして1895年の妻、明成皇后の日本人による暗殺まで、
波乱の歴史の真っ只中に、高宗は孤独に立ち尽くしていたのです。

しかし高宗は彼なりに朝鮮の近代化のために数多くの努力をしていました。
近代国家に向かう道の障害物となる身分制度と保守派の思想を脱皮しようと
1884年には議制改革をはじめるとともに、
官立学校の設立など、国民の意識の啓蒙に尽くしました。
1897年には国号を朝鮮から大韓帝国に変え、
外国からの干渉から抜け出し自主独立の道を歩むことを世界に宣言したのでした。

日露戦争で日本が勝利し、その圧力が大韓帝国にひしひしと迫ってきていた1907年4月。高宗は3人の密使をオランダに派遣します。
この年の6月15日、オランダのハーグで開かれた
万国平和会議の場で韓国の独立を全世界に訴えるのが目的でした。
しかしこの3人の密使は会議場に入場することさえできませんでした。
彼らは高宗の信任状を見せて会議場への入場を求めましたが、
会議の主催国のオランダは大韓帝国は外交権が無いという理由で入場を拒否したのです。
そしてこの事件の責任をとり高宗もこの年の7月19日、皇帝から退位することになります。
晩年を徳寿宮で過ごした高宗は1919年1月21日に亡くなりました。
67歳でした。

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