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歴史

池錫永

2011-05-12

<b>池錫永</b>
かかったら最後、10人中8~9人は死ぬと恐れられていた伝染病「天然痘」。
池錫永(チ・ソクヨン)はその天然痘を治すワクチン、種痘を初めて朝鮮に伝え、多くの人々を救った朝鮮時代の医師です。
では彼はどうやってその近代的な医学知識を得たのでしょう。

池錫永は1855年5月15日、ソウルで貴族階級にあたる両班(ヤンバン)・池翼龍(チ・イクリョン)の4男として生まれました。両班ではあったものの漢方に通じていた父は、中人階級の漢方医ともつきあいがあり、家が貧しく子供を書堂に行かせるお金がなかったため、聡明で探究心も旺盛だった4男の錫永を、当時名医として有名だった朴永善のもとに送り、漢学と医学を学ばせました。

1876年、修信使の随行員として日本を訪問した師匠の朴永善は、すでに西洋医学をとりいれていた東京順天堂医院の医師から種痘法を習い、「種痘亀鑑」という医学書をもって帰国し、これを弟子たちにも伝えました。
この1冊の医学書は池錫永を西洋医学の世界へと導きます。
天然痘には種痘が効くということは分かったものの、本で見る知識だけではおのずと限界があるものです。ちょうどその頃、釜山には日本海軍が開院した済生院という病院があり、そこでは種痘法が使われていました。その話を聞いた池錫永は20日をかけてソウルから釜山まで歩いていき、日本の医者に筆談で種痘法を学びたいと伝えます。彼の熱意が伝わり日本軍の軍医は、彼に種痘法を教え、彼は熱心に学びます。2ヵ月後、種痘を作り出すための痘苗と各種医学書をもちソウルに戻ってきます。そして1879年、韓国人としては初めて種痘法を患者に実施します。

すでに天然痘で幼い甥っ子たちを失っていた池錫永は、 まず妻の幼い弟に種痘を接種、結果は大成功でした。しかし問題もありました。種痘を培養するため種痘苗が足りないのです。そこで彼はさらに1880年修信使として日本にわたり種痘苗の製造技術を習得しました。そして帰国後にはソウルに種痘場を開き、大衆を啓蒙しながら本格的に医療活動を始めます。その後、1899年には最初の官立医学学校である大韓医学校を設立し、初代校長となります。そして1935年81歳で亡くなります。

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