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歴史

薛聰

2011-07-11

<b>薛聰</b>
世宗大王がハングルを発明する前にも、韓国語での文章作成の試みがありました。
漢字の音と訓を借りて、韓国語をつづる イドゥ(吏讀)と呼ばれるもので、15世紀以前には吏讀が代表的な韓国語の表記法でした。
そして新羅の大学者 薛聰(ソルチョン)が吏讀を作り出しました。
薛聰について語る時に切り離せないのが、その両親の存在です。
彼の父は韓国仏教の父とも呼ばれる高僧・元曉大師です。
元曉大師は戦乱の嵐の中にあった新羅の人々に大乗仏教を布教しました。
そして母は武烈王の娘である瑤石(ヨソク)です。
薛聰は655年にこの偉大な両親のもとに生まれますが、元曉大師は薛聰が誕生してから瑤石との縁を断ったといいます。
父とともに暮らすことはできませんでしたが、父と同様、薛聰は幼い頃から聡明で英知に富み、新羅に漢文が初めて入ってきた時に儒教の経典を韓国語にする業績を残しています。
つまり「周易」や「春秋」のような中国の経典に韓国語の助詞、語尾を付け加え、漢文を韓国語に訳す方法を表示した釋讀口訣を創案したのです。
中国の経典を新羅の言葉で読めるようになると、儒学は急速に発展、浸透していきます。
また薛聰は新羅の第31代王の神文王に儒学の精神を伝えます。
王の信頼と信任を得た薛聰はその後、官職を退き国学を設立するのに努めます。
儒教、仏教、禅の精神を合わせた 「甘山寺阿彌陀如來造像記」を記すなど、数多くの作品を書き残しています。
しかし残念ながら現在まで残る作品はなく、三国史記にも「多くの文を書き残したが、世の中に伝わるものはない」と書かれています。
吏讀により中国の古典を読む方法を新羅に広めた薛聰は、父の元曉大師に劣らぬ聖人だとされています。

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