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文化

新しくユネスコの世界記録遺産に登録された「乱中日記」とセマウル運動の記録

2013-07-09



先月6月19日、韓国南部の光州(クァンジュ)市で開かれた第11回世界記録遺産国際諮問委員会で、朝鮮時代に書かれた「乱中日記」と、韓国の近代化を導いたセマウル運動の記録が、新しくユネスコ世界記録遺産に登録されました。これで韓国は、ハングルが作られた過程と原理を記した「訓民正音(フンミン・ジョンウム)」や、朝鮮王朝の歴史が細かく記された「朝鮮王朝実録」など、11の記録遺産を持つことになりました。



新しく世界記録遺産に加わった「乱中日記」は、韓国の国宝に指定されていて、歴史研究の貴重な記録として高く評価されています。「乱中日記」は、朝鮮時代、豊臣秀吉が韓国を侵略した壬辰倭乱、つまり、文禄・慶長の役当時、韓国の当時の海軍を率いた李舜臣(イ・スンシン)将軍が書き残した記録で、7年間に及んだ戦争の状況や陣中の様子などが詳細に記録されています。「乱中日記」が知られるようになったのは壬辰倭乱が終わって200年あまりが経った1792年、朝鮮王朝22代目の王、正祖(チョンジョ)の時代でした。正祖は李舜臣将軍が残した記録を編集するように命じ、「李忠武公(イ・チュンムゴン)全書」としてまとめました。この時、壬辰倭乱当時に書かれた日記も集められ、「乱中日記」と名付けられました。7冊の「乱中日記」は、現在、李舜臣記念館がある忠清南道(チュンチョンナムド)牙山(アサン)の顕忠祠(ヒョンチュンサ)に保管されています。

さて、この「乱中日記」とともに、今回、世界記録遺産に登録されたセマウル運動の記録。セマウルは「新しい街」という意味で、セマウル運動を一言で表現すると「暮らし良い国作り」といえます。個人ではなく、みんなの暮らしを良くするための共同キャンペーンでした。1970年4月にスタートしたセマウル運動は貧しい農村を中心に始まりました。



1945年、日本による植民地支配から解放されたものの、一つの国が南北に分かれ、さらに一息つく間もなくぼっ発した韓国戦争などで、当時の韓国は、国全体が貧困に苦しんでいました。貧しい国の経済を立て直すため、韓国政府はセマウル運動に乗り出しました。韓国政府はまず、農村の人たちをセマウル運動に參加させるため、3千あまりの農村に335袋ずつ、セメントを無償で配りました。これがきっかけとなって全国の農村で環境改善作業が始まりました。周りの環境が整備されると、今度は農村の所得増大事業が進められました。麦と稲作だけに頼っていた農村で、いろんな種類の農作物が作られはじめました。農村にビニールハウスが作られはじめ、寒い冬にも新鮮な野菜の栽培が可能になりました。今では当然のことですが、当時は農業の革命といえるほど大きな成果でした。この他、畜産や養蚕など、いろんな形で農村の経済を豊かにする事業が進められ、1974年には農村の所得が都会を上回るほどになりました。このように政府と国民が力を合わせて、貧困と戦ったセマウル運動は、韓国の近代化と経済発展の原動力となりました。今回、世界記録遺産に登録されたのは1970年から1979年までの10年間、韓国政府を中心に進められたセマウル運動関連の記録で、大きく6つに分けられます。



セマウル運動の記録が世界記録遺産として認められたのは貧困と戦い、成功をおさめたケースとして、その価値を認められたからでした。セマウル運動の歴史は、今も貧困と戦っている開発途上国に希望を与えることができるのです。

「乱中日記」とセマウル運動の歴史が世界文化遺産に加わったことで、韓国の記録文化遺産は高麗時代から近代にいたるまで、11の記録遺産を持つことになりました。こうした記録遺産は韓国の歴史を世界に伝え、その価値が世界的に認められるきっかけとなっています。

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