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文化

ユネスコの世界文化遺産となった南漢山城

2014-07-22

ソウル近郊、京畿道(キョンギド)にある南漢(ナムハン)山城。6月22日、カタールのドーハで開かれたユネスコ世界遺産委員会で世界文化遺産への登録が最終的に決まりました。南漢山城は、韓国では11番目の世界遺産です。

南漢山城は、朝鮮時代、敵の攻撃から都の漢陽(ハニャン)、現在のソウルを守るために築かれた山城でした。ユネスコの文化遺産となったとはいえ、南漢山城を500年あまりに及ぶ朝鮮王朝の歴史からみると、屈辱的な事件の舞台でもありました。



1636年12月、中国の清は10万の大軍を率いて、凍てついた川、鴨緑江(アプロクガン)を渡り朝鮮を攻めてきました。朝鮮王朝16代目の王、仁祖(インジョ)の時代でした。清の進撃速度は速く、仁祖は、都を離れ、南漢山城に立て籠り、反撃の機会をうかがいました。真冬の山城に残されていたのは1万3千人あまりの将兵と50日分の食糧だけでした。45日の籠城の末、仁祖は降伏を決意します。平民の服を着せられた仁祖は、漢江(ハンガン)の渡し場、三田渡(サムジョンド)にあった清の軍営に出向き、3度跪き、9回額を地面につけて、臣下としての礼を強いられたのです。韓国の歴史はこれを「三田渡の屈辱」として記録しています。

南漢山城ツアーは北の門からスタートして、西の門近くにある建物や行宮へ向かうコースがおすすめです。ツアーを始める前に城郭を見て回ります。南漢山城には本城のほか、守りに有利な所に築いた出城、城門の外側に突き出るように築き、敵の攻撃を防いだ甕城などがあります。南漢山城は、地形や全体的な城郭の形から、都の漢陽の南を守るための甕城の役割を果たしていたことが分かります。渓谷や山などの周りの地形を活かした築城技術と防御に適した造りの城郭を見ていると、南漢山城が世界遺産に登載された理由が見えてきます。南漢山城は仁祖の時代に築かれた山城ですが、三国時代に築かれた城郭の跡を活用して築いたとされていて、三国時代と朝鮮時代の築城方式の違いを見比べることもできる貴重な文化遺産です。



南漢山城は、標高が500メートルという険しい地形を利用して築かれました。本城の城壁は9キロ、出城の城壁は2.7キロです。東西南北に4つの門があり、秘密の門、暗門が16か所設けらています。城壁の内側には王がとどまる臨時の王宮、行宮もあります。南漢山城は、戦時に備えて築かれた臨時の首都だったのです。山城が臨時の都の役割を果たしていたのは世界的にも稀なケースです。

南漢山城の北の門は戦勝門(チョンスンムン)です。中国・清の侵略で南漢山城に立て籠り、深刻な食糧不足に苦んでいた朝鮮軍は、食糧を手に入れるため、北の門から300人の兵士を送り出しました。しかし、潜んでいた清の軍隊によって全滅してしまったのです。後に、正祖(チョンジョ)は、この日の犠牲を忘れずに戦で必ず勝利せよという意味を込めて「戦勝門」と命名したのです。



北の門をくぐって歩いていくと、南漢山城で最も美しいとされるヨンジュ峰に築かれた甕城(おうじょう)を経て、西の門に出ます。また、戦争が起きたとき、将軍が兵士を指揮する建物「将台(チャンテ)」も見えます。かつて南漢山城には5つの将台(チャンテ)がありましたが、残っているのは西の門に近い守禦(スオ)将台だけです。南漢山城には、この他にもいろいろな建物や建物にまつわる逸話があります。

三国時代から1400年あまりにわたって韓国の歴史を見守ってきた南漢山城は、時代とともに原型をほとんどとどめないものになっています。しかし、山城と臨時の都としての役割を同時に果たしていた、その機能と歴史だけは変わりません。南漢山城がもつ機能とその歴史は、今、世界中の人々とともに守っていくべき文化遺産となったのです。

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