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文化

映画「鳴梁」が巻き起こした李舜臣ブーム

2014-08-26

この夏、韓国社会は「李舜臣(イ・スンシン)」ブームに包まれました。そのきっかけとなったのは、映画「鳴梁(ミョンニャン)」でした。「鳴梁」は、朝鮮時代、水軍を率いた名将、李舜臣将軍の「鳴梁海戦」をモチーフにした作品です。映画「鳴梁」は、封切り初日に68万7千人あまりの観客を集め、歴代最高を記録するなど、連日、韓国映画の興業記録を塗り替えています。また、4週連続で、映画前売り1位を記録し、延べ観客数も1600万人を越え、2千万人になるのではないかと予想されています。



映画「鳴梁」の何が、李舜臣ブームを巻き起こしているのでしょうか。韓国は今年、セウォル号旅客船沈没事故をはじめ、いろんな事故に見舞われました。韓国社会全体が暗欝な雰囲気に包まれていた時、映画「鳴梁」は強力なリーダーシップを持った李舜臣将軍が復活したような頼もしさを感じさせてくれました。映画「鳴梁」を通じて、韓国の人たちは韓国社会を取り巻いていた得体の知れない不安を勇気に変える知恵、逆境に打ち勝とうとする力を見たのです。映画「鳴梁」の中の李舜臣将軍は、恐怖に立ち向かうことが真の勇気であることを身をもって示した英雄でした。

映画のタイトルにもなった「鳴梁」での海戦は、壬辰倭乱、日本でいう文禄の役の後、再び日本が朝鮮を攻めてきた丁酉再乱(チョンユ・チェラン)、つまり慶長の役で繰り広げられた戦いです。1597年9月16日に起きた「鳴梁海戦」は奇跡の戦と評価されています。たった12隻の船で330隻の敵と戦ったとされています。壬辰倭乱、文禄の役で大きな功績を挙げた李舜臣。朝廷の官吏たちの間に、戦で次々と手柄を立てる李舜臣はねたみと牽制の対象に過ぎませんでした。結局、李舜臣は讒言(ざんげん)によって罷免されます。李舜臣の代わりに、朝鮮水軍を率いることになった元均(ウォン・ギュン)は、敵の作戦を見破ることができず、戦で大敗してしまいます。朝鮮の南の海を掌握し、勢いを得た日本軍は、朝鮮の都、漢陽(ハニャン)、現在のソウルに向けて北上し始めます。恐怖に見舞われた朝鮮の朝廷は、再び、李舜臣に朝鮮水軍を任せました。李舜臣は、忠誠を誓った王や信じていた仲間に裏切られましたが、国を守らなければならないという使命感を抱いて再び海に出る決心をするのです。戦場に戻った李舜臣の目に映ったのは戦意を失った兵士、恐怖におののく民、そして12隻の船だけでした。鳴梁海戦の前日に書かれた「乱中日記」には、当時の李舜臣将軍の心境がそのまま記されています。「1957年9月15日、兵法曰く『死を必すれば即ち生き、生を幸(ねが)えば即ち死す』。これは今日の我々に必要な言葉である。」



韓国人にとって李舜臣は最後まで国を守るために生きた英雄ですが、彼を取り巻く環境を考えると、李舜臣は誰よりも孤独だったのかも知れません。1597年、鳴梁海戦があった年は、李舜臣にとって最悪の一年でした。戦で功績を挙げたにもかかわらず権力争いによって罪を着せられました。また、母親を亡くしてしまったのもこの年です。投獄された息子に会いにくる道中に得た病が原因でした。さらに、鳴梁海戦の直後に息子を亡くします。この時は、さすがの李舜臣も号泣したといいます。

李舜臣は原則を重視するタイプの武将でした。部下に支給される普及品まで一つ一つチェックしていたそうです。こんなタイプの上司は、部下に疎まれるのが当たり前ですが、李舜臣将軍の部下は彼を父親のように慕ったそうです。李舜臣の生き方にありました。彼は兵士たちの悩みに耳を傾けどんな仕事も率先して当たっていました。原則を重視し、先頭に立ち、仲間を勇気づける李舜臣のリーダーシップこそ、今日の私たちが見習うべき最高のリーダーシップだといえます。さまざまな事件や事故で不安が増している近頃、映画「鳴梁」で、李舜臣は韓国社会が望んでいる理想的な指導者の姿を示し、これがブームにつながっているのかもしれません。

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