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歴史

弓裔

2012-01-12

<b>弓裔</b>
新羅時代も後期に入ると貴族たちの絶え間ない権力争いにより国は大きく乱れます。
その乱れた国を立て直そうと、まず二人の英雄が歴史の表舞台に登場します。
後百済の甄萱(キョンフォン)、そして後高句麗を建国した弓裔(クンイェ)です。

弓裔に対する評価は大きく分かれます。
民衆を思う、革命的な賢い君主だったという肯定的な見方もあれば、一方では自らを生き仏だと言った急進的な暴君だったという批判もあります。

弓裔は後高句麗の建国の王とはいうものの、実は新羅48代王の景文王の息子でした。
857年に生まれたと推定されますが、生まれると同時に「この子は国の災いとなろう」という予言に従い、父である王から殺されかけます。
しかし乳母の手により何とか王宮から脱出しますが、このときに赤ん坊の彼は片方の目を失うという大怪我をします。

その後、 世達寺で僧侶として生活していた弓裔は、日に日に乱れる国を見ながら、寺を飛び出し、山賊の群れに飛び込み、だんだんとその頭となっていき、ついには江原・京畿・黄海一帯を攻略し、多くの兵を集めるようになります。
その際に、海上貿易で大きな富を得ていた王建(ワンゴン)とも手を結び、経済的な協力を得ます。

そして軍事力と経済力を背景に901年に後高句麗を建国します。
3年後には国の名前を「大東方国」という意味の「摩震(マジン)」に変え、首都を鐵圓(チョルウォン、現在の江原道鉄原)に移し、本格的な政治活動を始めます。
鉄園は韓半島のちょうど真ん中に位置します。
そして1年豊作なら、その後の7年は十分に食っていけるといわれるほどの穀倉地帯でした。
弓裔はこの地で新羅時代の身分制度から脱皮した社会を目標に多くの優秀な人材を登用し、自らは弥勒菩薩を自認してm秩序のある差別のない国作りを始めます。

しかし戦で敗れて投降した新羅の人々を無残に殺害するなど、専制君主として横暴が高まり、特に915年には妻の康氏とその間に生まれた二人の息子を殺害するなど、その様相はだんだんと狂気を帯びていきます。
そして918年、彼の臣下だった申崇謙(シン・スンギョム)、卜智謙(ボク・チギョム)などが王建を新たな統治者として立てるというクーデターを起こし成功します

臣下の手で王宮から追いやられた弓裔は最後は民衆の手により、悲惨な最期を遂げることになります。
王建はその後、919年に首都を松嶽(ソンアク、現在の開城)に移し高麗の世を開きます。

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