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歴史

朴堧

2012-02-16

<b>朴堧</b>
韓国の歴史上、最高の名君と言われる朝鮮王朝時代4代目の世宗(セジョン)の在位15年目だった1433年の旧正月、昌徳宮で王と文武百官の集まる宴が開かれました。
この日の宴には500人の楽士と舞踊手によって、音楽、歌、踊りなどが華やかに繰り広げられました。
そしてこの宴は音楽史的にも大きな意味をもっていました。
世宗は儒教政治の理想は「礼楽」、つまり礼で国の秩序を守り、楽で民衆を統合して国を治めるものだと思っていました。
そして1424年からこれまでの音楽を研究し、再整備するという遠大なプロジェクトを開始し、9年あまりの歳月の過ぎたこの日、その成果が発表されたのでした。
そしてこのような世宗の礼楽プロジェクトの総責任者が朴堧(パク・ヨン)でした。

高麗末の1378年に忠清北道で生まれた朴堧は、産声が笛の音のようだったといいます。
また科挙の試験を受けに都に向かう途中、ピリ(縦笛)のうまい道化師を見て自分の笛の演奏の間違いを直してくれるよう頼んだという逸話が伝わるほど、朴堧は笛だけでなく、琵琶、コムンゴ(琴)などの楽器の演奏にも長けていました。
しかし音楽の才能では官僚になることはできず、父も祖父も中央の主要官職を歴任するような家柄だったため、彼も28歳で科挙に合格、官僚としての人生を歩みはじめます。

そして朴堧が再び音楽と縁を結ぶのは、当時まだ王子だった世宗の文学の先生になってからでした。
文学を教えながらも音楽に対する情熱を語る朴堧は王子の世宗に強い印象を残します。
世宗は王に即位した後、朴堧を音楽の事務を司る官庁の慣習都監の提調という役職に命じ、音楽に専念できるようにします。
水を得た魚となった朴堧は、楽譜の編纂、古典楽器の復元・修復を積極的に行っていきます。
さらに新羅時代から伝わってきた郷楽、唐の国からの唐楽、宋の国から伝わった雅楽など、当時混在していた音楽の律調を調べ、楽譜の原則と楽器の絵の書かれた楽書も作ります。また復元・修復した楽器の音を正確に調律することで、139の楽器が合奏時にきれいな和音を形成できるようにしました。

朝鮮の国楽の父ともいえる朴堧でしたが、晩年は政変に巻き込まれ、職を追われて、故郷に落郷し、81歳で亡くなりました。
しかし朴堧はその後、韓国の3大楽聖の一人とされ、高句麗の王山岳(ワン・サンアク)、新羅の于勒(ウルク)とともに現代にもその名が伝わっています。

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