メニューへ 本文へ
Go Top

歴史

柳得恭

2013-01-31

柳得恭
朝鮮時代に書かれた書籍「渤海考」にこんな一文があります。

夫餘氏(百済)が滅び 高氏(高句麗)が滅びると
金氏(新羅)がその南の地を占め
大氏(渤海の始祖  大祚榮)が北の地を領有し渤海と名づけた
当然 南・北国史が無くてはならないのに高麗がこれを編纂しないのは誤りだ。

これは三国時代→統一新羅→高麗という歴史の流れを、三国時代→南北国時代→高麗だと主張しているのです。これは698年に大祚榮が建国し229年の歴史をもつ渤海も、
わが国の歴史に加えるべきだという考え方です。そして南の新羅、北の渤海という二大勢力の時代を南北国時代と呼ぶというものです。

この「渤海考」を書いたのが柳得恭(ユ・トッコン)です。
柳得恭は1748年陰暦11月5日に生まれます。曽祖父と外祖父が庶子だったことから身分上、彼は生涯を庶子として過ごさなければなりませんでした。さらに5歳で父まで亡くし、経済的に苦しい生活を強いられます。しかし彼の母は「孟母三遷之敎(子供の教育のために三度の引越しをしたという孟子の母の故事)」を地で行くような人でした。28歳で未亡人になり生活は苦しかったものの、息子の学問のためにソウルに上京し、高官たちの多く住む町で手内職をしながら息子の学業を助けました。

このような母の期待に応え、柳得恭は数学と天文学に造詣が深く、叔父の影響で実学に目覚め、朴趾源、朴齊家、李德懋のような北学派(清の発達した文物を取り入れようと主張した朝鮮後期の実学者)の人々と交流し「白塔同人」という詩の同人界を結成します。この頃から彼は詩人としてその名を世に知られるようになります。そして25歳の時に後百済までの漢詩を集めた「東詩萌」を編集し、歴史を基盤とした叙事詩人として頭角を現していきます。また1773年には朴趾源、李德懋らとともに開城、平壌、百済の都だった公州を旅して、歴史地理にも関心を持つようになります。

そして詩文に優れた才能を見せた柳得恭は1774年、司馬詩に合格し、1779年に朴齊家、李德懋らとともに奎章閣の検書官に任命され、王と臣下との間で行われた論議の内容を記録したり、文書を筆写する役目を担います。さらに正祖の配慮と時代的な雰囲気から庶子の身分ではありましたが、彼は抱川縣監、楊根郡守などの地方官を歴任します。また北京に二度、瀋陽に一度というように、中国にも派遣され想像でだけ知っていた韓半島の北部と満州一帯の高句麗と渤海の昔の領土をその目で見る機会を得ます。そしてこれが1784年に彼が「渤海考」を書く決定的な契機となるのです。

その後、正祖が亡くなると彼も官職から退き、著述にだけ没頭する日々を送ります。そしてこの時期に朝鮮時代の歳時風俗を記録した「京都雑志」、古代の歴史地理書「四郡志」などを書き残し、1807年に60歳で亡くなりました。

おすすめのコンテンツ

Close

当サイトは、より良いサービスを提供するためにクッキー(cookie)やその他の技術を使用しています。当サイトの使用を継続した場合、利用者はこのポリシーに同意したものとみなします。 詳しく見る >