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ライフスタイル

第647話 大統領府・青瓦台の歴史

2022-03-22

玄海灘に立つ虹

ⓒ YONHAP News

尹錫悦(ユン・ソンニョル)次期大統領が、大統領の執務室をソウル市内に別途に設け、大統領府・青瓦台(チョンワデ)は公園にするなどの計画を公式に発表したことで、青瓦台はまもなくその歴史に幕を閉じることになりそうです。


青瓦台の現在の敷地には高麗時代の王、肅宗(スクチョン。高麗第15代王)が1104年に宮殿を建てており、それ以来最高権力者と密接な関係を持つ場所となってきました。肅宗は都を遷すことはできませんでしたが、その王宮は高麗時代末期まで残っていました。その後朝鮮王朝時代の1868年(高宗(コジョン。朝鮮王朝第26代王)5年)、その南に景福宮(キョンボククン)を建てたことで、現在の青瓦台の敷地は、景武台(キョンムデ)という、王宮の裏の庭園となりました。


植民地時代の1939年、朝鮮総督府が、ここにあった建物を崩し、新たに建物をつくり、総督官舎として使っていましたが、1948年、大韓民国政府の樹立とともに大統領官邸となり、初代~第3代イ・スンマン大統領から現在のムン・ジェイン大統領まで合わせて12人の大統領が官邸と執務室として使用してきました。青瓦台という名称が使われるようになったのは、ユン・ボソン大統領(第4代)の時からです。1960年にユン大統領が就任した当時、イ・スンマン大統領の下野につながった4.19革命(4月革命)の雰囲気の中、ユン大統領は景武台に対する否定的なイメージを一新させるため、名称を改めたのです。


大統領と青瓦台は70年余りの間、いろいろな事件の渦中にありました。1968年1月21日、銃と手榴弾で武装した北韓の特殊部隊軍人31人が韓国の大統領ら要人の暗殺を企て、青瓦台付近まで潜入し、銃撃戦が発生したのは、代表的な事件の一つです。このとき28人が射殺、二人が逃走し、ひとりが逮捕されました。彼らが浸透してきたルートは閉鎖されましたが、2009年、41年ぶりに一部が解禁となり、山登りができるようになりました。青瓦台の後ろには北岳山(ブガクサン)がそびえていますが、山で立ち入り禁止となっている区域は徐々に解除されてきています。1979年10月にはパク・チョンヒ大統領が、青瓦台の敷地内にあった宴会場で、当時の中央情報部長に暗殺された事件もありました。 


ちなみに大統領の執務室の移転については、以前から、大統領選挙の度に公約として掲げられてきました。キム・ヨンサム大統領とキム・デジュン大統領は光化門(クァンファムン)の政府庁舎に執務室を置こうとしましたし、ノ・ムヒョン大統領は行政都市の世宗(セジョン)市に移転させようとしました。ムン・ジェイン大統領は光化門に移転させるとしていましたが、警護や交通などの問題で実現しませんでした。青瓦台の面積はアメリカ・ホワイトハウスの3倍とされていて、国民の近くで国民に寄り添うために執務室を移すことを誰もが公約として打ち出していたのです。ちなみにユン次期大統領は執務室をソウルの龍山(ヨンサン)というところにある、国防部が入る庁舎に移転するとしていますが、費用の問題や安全保障の空白が生じかねないという懸念などから反発が強く、青瓦台の国民請願サイトでは、大統領の執務室の移転に反対する書き込みに約40万人が賛同(4月22日現在)している状況です。

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