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ライフスタイル

ウズベキスタンに行ってきました(2)高麗人の女性たち

#ソウル・暮らしのおと l 2023-07-21

金曜ステーション


コリョイン、またはコリョサラムとも呼ばれる人々は、19世紀後半以降、ロシアの沿海州に移住した韓半島出身者の子孫です。当時この極東の地に、初期には生活の糧を求めて、そして日本による植民地化が進んでからは政治的圧迫から逃れて、または独立運動のために、多くの朝鮮人が移住しました。ところが1937年、ソ連のスターリンの政策により、約17万人の高麗人が、極東の沿海州から中央アジアのウズベキスタンとカザフスタンに強制移住させられました。貨物列車の劣悪な移送の過程で、命を落とす人も数多くいたそうです。そうしてたどり着いた中央アジアの地は、一面にアシの生えた荒れ地でした。その地に高麗人の人々は畑をつくり、必死の思いで生き延びたのです。現在、ウズベキスタンには約18万人の高麗人の方々が少数民族として暮らしています。

今回私は、コリアン同胞女性たちの交流を促す韓国の団体のプロジェクトとして、さまざまな世代のウズベキスタンの高麗人女性たちに会ってきました。改めて、慣れない土地で力を合わせ民族的な文化を守ってきた高麗人の歴史、そしてソ連時代を経てウズベキスタンが独立した後も、勤勉さと誠実さでさまざまな逆境を乗り越えてきた高麗人の方々のパワフルな姿を知ることができました。


今回私たちは、「人生語り(삶이야기)」というワークショップと、オーラルヒストリー(口述歴史)のためのインタビューを通じて人々に出会いました。これは、自分や両親、祖父母までさかのぼった個人史を語ってもらって、その一人ひとりの物語に耳を傾けて、違う境遇で生きてきたお互いを理解しあおうというプログラムです。

高麗人2世のイ・エブゲニヤさんは、とっても快活なおばあちゃんでした。47年にウズベキスタンで生まれてすぐに、父親の仕事で北韓に移り、小学校4年生まで平壌に住んでまたウズベキスタンに戻ってきたとのこと。13日かけて北韓からウズベキスタンに移動する汽車の中で、ロシアの平野の風景がとても美しかったという記憶を語ってくれました。

3世で50代のキム・アレクサンドラさんは、親世代が苦労した分、自分は大学に進学し、企業などで一生懸命働いたといいます。ウズベキスタンは自分たちを受け入れてくれた国、韓国は祖先の国、どちらも大切に思っているという話が胸に残りました。

一方で、自分の得意分野を生かしばりばり活躍する若き3世4世の女性たちも印象的でした。30代のヘン・アリーナさんはダンスの才能を生かし、韓国舞踊を学んでアンサンブルを結成、いまは3人の子どもを育てながら舞踊専門学校を運営しています。同じく30代のニ・ナデズダさんは韓国留学を経て韓国語を完璧にマスターして通訳家として活躍し 、現在は開発したアプリの仕事に携わっています。

ウズベキスタンにはコルホーズといわれる高麗人の集団農場が各地にありました。ここは高麗人にとって農場だけでなく生活施設を共有するコミュニティでした。 ここでお会いした80代のチャン・エミリアさんは、コルホーズで生まれ育った、高麗人の暮らしの生き証人ともいえる方でした。大陸の各地で働いた時代や、農場での暮らし、そして今は子供や孫たちが立派に育って幸せだという話をたくさん聞かせてくださいました。


この旅で出会った高麗人の女性たちは皆、忍耐強く働き者で、同時に明るく大らかな人々でした。語り尽くせない苦労がたくさんあったことでしょうが、たくましく、そして高麗人であることに誇りを持って生きる、魅力あふれる人たちでした。

この出会いを通じて私は、いま韓国にも数多く住んでいる高麗人の人々、また、高麗人や中国朝鮮族、そして在日コリアンのように、アジア各地に散らばったコリアンルーツの人々の歴史に、改めて関心をもつようになりました。本当に貴重な機会でした。

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