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ピープル

韓国インディーズバンドの頼もしい助っ人、キム・ウン

2016-02-02

2015年は韓国のインディーズバンドが登場して20年目になる年でした。インディーズバンドというと、マイナーな音楽というイメージを思い浮かべますが、今や、インディーズ音楽はラジオの音楽番組をはじめ、映画やドラマのサウンドトラックなどに使われ、韓国人の生活に溶け込んでいます。



韓国のインディーズバンドが大衆と音楽を共有するまでには長い時間がかかりました。そして、その裏にはバンドのメンバーだけではなく、インディーズ音楽を知らせるために絶えず努力してきたスタッフたちの努力がありました。公演企画会社、モスフィットの代表、キム・ウンさんもその一人です。1990年代半ば、インディーズバンドが登場した時、韓国では若者の街として知られるソウルの弘益(ホンイク)大学界わいのクラブですらインディーズバンドの公演が禁じられていました。そんな時、キム・ウンさんはインディーズバンドのアルバムを制作し、公演を企画したのです。

2016年現在、クラブやライブハウスが集まっている弘益大学界わいで活動しているインディーズバンドは1千チームあまり。1995年、10チームにもならないバンドから始まったインディーズ音楽の規模が20年間で100倍以上に成長したのです。



時間を遡ってみましょう。1990年代半ばの韓国の大衆音楽はHOT、ジェックスキッスなどアイドルのダンスミュージックと、シン・スンフン、イ・スンファンなどバラード音楽、大きく2つに分かれていました。一方、バンド音楽は弘益大学界わいのクラブで細々と活動していました。当時、バンドの音楽は強烈なヘビーメタルが中心でした。しかし、バンド活動をしていたミュージシャンたちもヘビーメタル一辺倒の音楽に変化が必要だと感じ始めていました。そんな時、ヘビーメタルより少しソフトで自由なオルタナティヴ・ロックというジャンルが登場します。韓国では、特に、アメリカのミュージシャン、カート・コバーンのバンドが人気を集めました。1994年、27歳の彼が自ら命を絶ったというニュースが報じられました。その1年後、弘益大学界わいのライブクラブとレコード会社が、バンドを中心としたカート・コバーン1周忌追悼コンサートを開きます。このコンサートはそれぞれ活動していたインディーズバンドを集めるきっかけとなりました。そして、このコンサートを通じてインディーズ音楽に魅了された若者たちがバンドを結成するようになります。大学で美術を専攻していたキム・ウンさんも、この時期に、インディーズ音楽の世界に足を踏み入れます。



インディーズ音楽界の仲間入りをしたキム・ウンさんはインディーズバンドのアルバム・公演企画者第1号、マネージャー第1号と呼ばれました。彼は自分だけの独特なスタイルで公演を企画し、バンドのメンバーとファンを魅了しました。キム・ウンさんの企画力は、無名のバンドの公演を企画する段階で発揮されます。1997年、文化の街とされる大学路(テハンノ)のライブホールで新人バンド「マル」の初公演を開くことにしたキム・ウンさん。無名のバンドの公演と聞いた関係者たちの反応は冷たいものでした。キム・ウンさんは半ば強引に契約金を渡し、ライブホールを借りました。公演場が決まった後、バンドを連れて大学路の中心、マロニエ公園に向かい、毎週、土曜日と日曜日に公演を開き、ファンクラブを作っていきました。数ヵ月後には1万2、3千人がファンクラブに加入し、無名のバンドの初公演のチケットはすべて売りきれとなりました。



インディーズ音楽と共にしてきた20年。キム・ウンさんはその時間を悔いることはありません。しかし、ネットで簡単に音楽を選んで聞ける時代になり、アルバムの売り上げが激減したため、キム・ウンさんもつらい時期を送っています。それでも、彼はインディーズ音楽をあきらめることができません。



ライブ舞台を通じてファンとコミュニケーションしたいと願うインディーズバンド。その舞台の裏にはキム・ウンさんが黙々と彼らの音楽と夢を支えています。インディーズ音楽を愛し、青春をかけたキム・ウンさんは、これまでの20年と同じように、これからの20年も韓国のインディーズ音楽と共に歩んでゆくことでしょう。

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