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文化

ミュージカルで振り返る大韓帝国最後の皇女、徳恵翁主の生涯

2014-05-27

徳恵翁主(トッケ・オンジュ)は、朝鮮王朝26代目の王で、大韓帝国初代皇帝である高宗(コジョン)の末娘、つまり皇女として生まれました。しかし、彼女は、日本に国権を奪われた大韓帝国に生まれたため、悲劇的な人生を送った女性でもありました。5月25日は徳恵翁主の生まれた日で、毎年、この時期になると、悲しい韓国の近代史の中心に立たされていた彼女の人生を振り返ることができます。今、大韓帝国最後の皇女、徳恵翁主の生涯を描いたミュージカル「徳恵翁主」が、ソウルの聖水(ソンス)アートホールで公演されています。

徳恵翁主は、1912年、父親の高宗が還暦を迎えた年に生まれました。高宗は自分に似た徳恵翁主を可愛がり、母親には「福寧堂(ポンニョンダン)」という雅号を授け、盛大な宴を開いたと記録されています。また、王室の慣わしを無視し、王の寝殿である徳寿宮(トクスグン)の咸寧殿(ハムニョンジョン)で娘を寝かせ、宮殿の境内に幼稚園を作って通わせました。しかし、1919年、徳恵翁主が8歳の時、高宗の崩御と同時に、幸せだった彼女の人生は一変します。当時、日本は植民地とした国の王族や貴族を日本に連れていき、自国民と結婚させる政策を取っていて、徳恵翁主もその対象になったのです。徳恵翁主は、13歳の時に日本に連れていかれ、日本の学校に通っていたときに、母親を亡くしてしまいます。衝撃に打ちのめされた彼女は、その後、対馬藩主の息子との結婚を強いられました。



ミュージカル「徳恵翁主」は1925年、徳恵翁主が日本に連れていかれる場面から始まり、1962年、祖国の韓国に帰ってくるまでの人生を描き出しています。ミュージカル「徳恵翁主」は、徳恵翁主と、彼女と結婚した対馬藩主の息子、宗武志(そう・たけゆき)、そして娘の正恵(まさえ)、3人家族の物語です。徳恵翁主と政略結婚したというだけで、夫の宗武志についてはあまり知られていません。しかし、彼も自分の意志ではなく、国に命じられて結婚したわけですから、ある意味、被害者だったといえます。そのため、ミュージカルでは、家庭と妻を守るために努力した人物と想定しています。不安な結婚生活を始めた徳恵翁主夫婦に赤ちゃんが生まれます。日本に連れていかれた徳恵翁主は、結婚後も神経衰弱症状を見せていたとされますが、妊娠してからは生まれてくる赤ちゃんのためにと心身の健康に気を配ったといいます。

徳恵翁主にとって、妊娠した10か月間が、日本での生活で一番幸せな時期だったのかも知れません。娘の正恵が生まれたあと、彼女は深刻な産後うつの症状を見せたのです。日本で暮らし始めた直後から神経衰弱症状を見せていた徳恵翁主に、出産後、精神分裂の症状が現れました。日本の敗戦で財産を没収された夫の宗武志は、どうするこもできず、徳恵翁主を精神病院に入院させ、離婚の手続きを取ります。娘にも会えず、一人ぼっちの徳恵翁主は15年あまりの長い時間、病院に入ったままでした。実際の彼女の病名は精神分裂症ではなく、若年性認知症だったとされています。1956年、娘の正恵が行方不明になりました。失踪とも、自殺ともいわれ、父親の宗武志は息を引き取る寸前まで娘を探し歩きましたが、最後まで正恵は見つかりませんでした。ミュージカル「徳恵翁主」は激動の時代の中心に立たされた家族の悲しい運命を切々と描き出しています。



徳恵翁主が帰国したのは、祖国を離れて38年目になる1962年のことでした。身も心もボロボロになってしまった彼女は、1989年に亡くなるまで、昌徳宮(チャンドックン)の隣で暮らしながら父親の高宗を懐かしんでいたといいます。

韓国では5月を「家庭の月」と言います。そんな5月に生まれた徳恵翁主の生涯を顧みながら家族の意味について考えてみてはいかがでしょうか。

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