メニューへ 本文へ
Go Top

歴史

漢江の奇跡

2015-02-24

漢江の奇跡
1962年1月13日、韓国政府から重大な発表がありました。当時、国家再建最高会議の議長を勤めていた朴正煕(パク・ジョンヒ)は、新年のメッセージを通じて、自立経済達成を目標とする「経済開発計画」を発表しました。韓国戦争の影響で、宿命のようにも見えた貧困から抜け出すための第一歩を踏み出したのです。後に「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれた韓国の高度経済成長の始まりでした。

1962年から66年まで、5年にわたる第1次経済開発5ヶ年計画の目標は、自立経済を構築し、韓国を近代化するというものでした。海外の資本を導入し、まず農水畜産業、つまり1次産業を近代化し、次いでエネルギー産業を発展させ、道路や橋梁など社会間接資本を拡充していこうというプロジェクトでした。経済開発計画を発表した政府は意欲的にプロジェクトを進めていきました。まず、大規模な重化学工業団地の建設を計画、2月3日には経済開発5ヶ年計画の核心事業である「蔚山(ウルサン)工業センター」の建設に取り掛かります。翌年の1963年には、大韓石油公社の精油工場を完成させ、自動車生産工場や造船所など、大規模な産業施設を相次いで建設するなど、着実に経済発展の基盤を築いていきました。

しかし、韓国政府が意欲的に進めていた経済発展計画は資本不足という大きな壁にぶつかります。1960年代に入って、アメリカは無償援助を段階的に減らし、国家に対する信用格付けの低い韓国は借款の導入も難しい状態でした。資金難にあえいでいた韓国に救いの手を差し伸べたのは西ドイツでした。当時、韓国と同じく、分断国家だった西ドイツは韓国に対して1億5千万マルクを支援したのです。この1億5千万マルクが韓国の経済発展計画を成功へと導く基盤となりました。

1962年6月9日。韓国政府は「緊急通貨措置」を公布します。地下に潜っている民間資金を産業資源とするため、通貨単位を「ファン」から「ウォン」に変え、1ウォンを10ファンと交換するという「通貨改革」を実施したのです。しかし、期待に反して、通貨改革は物価の高騰を招き、社会的な混乱を巻き起こしました。韓国政府が推進した通貨改革措置はひと月後に解除されてしまいました。資金難に悩まされていた政府は貯金を獎励する大々的なキャンペーンを繰り広げます。韓国政府は20パーセントを越える金利を提供し、国民の積極的な参加を導き出すことができました。このお金は企業貸出しや投資へつながり、経済発展の動力となりました。

政府の経済開発計画が本格的に進められるにつれて、農村も活気を帯びはじめました。農業生産の拡大は、5ヶ年計画の核心事業の一つでした。韓国の農村が息を吹き返し始めた頃、韓国経済は軽工業から重工業への転換期を迎えていました。また、経済の心臓ともいえる製造業も落ち着きはじめ、輸入に頼っていた生活用品も韓国産に取って代わるようになりました。1961年当時、82ドルほどだった韓国の一人当たりのGDPは経済開発計画によって短期間に130ドルまで増加し、1960年当時、2400万ドルほどだった輸出も、1964年には1億ドルを達成しています。政府が財源を確保するための先決課題として生活必需品の国産化に注目したのがポイントでした。1960年代半ばに入ると、経済発展の基盤となる道路などの施設も次々に建設されるなど、1962年に始まった韓国の経済開発計画は、期待以上の成果をあげました。

韓国戦争ですべてを失い、何もないまま始まった「第1次経済開発5ヶ年計画」は、 期待以上の成功をおさめ、世界でもっとも貧しい国の一つだった韓国は目覚ましい成長を遂げることができました。壊滅状態にあった韓国が、短期間で成し遂げた急速な復興と経済成長は世界を驚かせ、「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれるようになりました。

おすすめのコンテンツ

Close

当サイトは、より良いサービスを提供するためにクッキー(cookie)やその他の技術を使用しています。当サイトの使用を継続した場合、利用者はこのポリシーに同意したものとみなします。 詳しく見る >