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歴史

柳寛順

2012-03-01

<b>柳寛順</b>
3月1日は3.1独立運動の記念日です。
93年前の、その日「大韓民国独立万歳」を叫び、街に飛び出した人々の数は202万3089人、集会の数は1542回に達しました。
そしてこの運動は、その後の日本の植民地統治に大きな影響を与えます。
その3.1独立運動を思い出すときに、人々が一番先に頭に思い浮かべるのは独立宣言文を発表した33人の人々よりも一人の女子高校生です。
柳寛順(ユ・グァンスン)、韓国人にとって彼女は独立運動のシンボル、韓国のジャンヌ・ダルクです。

1902年11月17日、忠清南道(チュンチョンナムド)天安(チョンアン)市で生まれた柳寛順は、幼い頃からキリスト教の信者であり、民族教育運動を展開する啓蒙運動家だった父、柳重権(ユ・ジュングォン)の影響を受けて育ちました。
彼女は聖書の1節を耳で聞いただけですぐに暗記できるほど頭脳も明晰でした。
そのため1915年、宣教師の紹介で梨花学普通科2年に編入し、3年後の1918年には奨学生として高等科1年に入学します。.
そして日本の植民地支配の世の中に対し、「フランスのジャンダルクのように国を救う少女になる」と言っていたといいます。

彼女が高等科2年になった1919年、高宗皇帝が亡くなります。
突然の逝去に日本による毒殺説が流れ、その葬儀の日には多くの人々がソウルに集まる中、3月1日、大々的な独立万歳運動がおきました。
柳寛順も6人の同級生とともに、運動に参加します。
このときは警察に捕まったものの、梨花学堂の外国人宣教師たちの「生徒たちは釈放してほしい」という要求により釈放されます。
しかしその後、万歳運動はどんどん拡大し、朝鮮総督府は3月10日、全国の中学校以上の学校に対して臨時の休校令を出します。

3月13日、従姉妹の柳禮道とともに独立宣言文を手に帰郷した柳寛順は、今度は故郷の天安で独立万歳運動を始めます。
そして陰暦の3月1日にあたる4月1日に忠清南道天安郡竝川(ビョンチョン)で3000人の群集が集まり、独立万歳を叫んだのでした。
この日の集会は日本の警察による弾圧で、柳寛順の両親をはじめとする19人が死亡、30人あまりの負傷者を出し、彼女自身も逮捕されます。
目の前で両親を亡くし、日本の憲兵隊による激しい拷問を受けながらも、彼女は最後までデモの主導者は自分だといい、罪のない人々の釈放を求めました。

結局、 柳寛順は2回の裁判で5年と3年の実刑を受け、西大門(ソデムン)刑務所に収監されます。
しかしその後も、刑務所の中で毎日朝晩、独立万歳を叫び、翌年の3月1日には、独立運動1周年を期して刑務所の中で他の収監者とともに獄中万歳運動を繰り広げます。
これを契機に彼女は地下の独房に入れられ、激しい拷問を受けることになり、結局、1920年9月28日に獄死します。わずか17歳でした。

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