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歴史

任允摯堂

2012-08-30

任允摯堂
男性中心の儒教社会だった朝鮮の世の中で女性の才能を主張した任允摯堂(イムユンジダン)、彼女はどんな人生を送ったのでしょうか。

両班の家柄、老隱・任適の娘として1721年、陽城(現在の京畿道・安城)で生まれた任允摯堂は、1728年に父が病死すると、その翌年、家族とともに清州の玉華に移り住みます。
ここで彼女は兄から儒教の経典と史書を学びます。
この兄は朝鮮後期の大性理学者、鹿門・任聖周でした。
もう一人の兄、 任命周もやはり学識のある学者でした。
このような家柄に生まれたせいでしょうか、任允摯堂は学問に人並みはずれた才能を示し、兄弟の中でも頭角を現しました。
そのため、兄たちはいつも「お前が男に生まれなかったことが本当に残念だ」と言っていたといいます。
号である允摯堂というのも、兄の聖周がつけてくれたものでした。
允摯堂というのは、朱子の「太任と太女以を尊敬する」という言葉からとったものでした。
太任と太女以は東洋の女性の中で最も理想像だと言われた二人、中国朱の時代の名君文王の母と妻です。
しかし任允摯堂の女性としての人生は孤独でした。
1739年19歳で1歳年下の申光裕と結婚しました。
しかし夫とはわずか8年で死別します。
また難産の末に生まれた子供も幼くして亡くなります。
そのため義理の弟の子供を養子に迎えますが、この子も彼女よりも先に亡くなります。

任允摯堂はそのような忍苦の人生を学問で昇華しました。
彼女は性理学の焦点となっていた理気心性、すなわち宇宙と人間の本然の性質に対する理解と人間の本性をめぐる四端七情の問題を論理的に探求し、宇宙自然と人間に対する原理を追求したのでした。
そして絶え間ない修養と道徳的な生活態度で尊敬され1793年73歳で亡くなりました。
そして3年後に弟の任靖周と、夫の弟 申光祐が彼女の遺稿をまとめて「允摯堂遺稿」として刊行しました。

朝鮮の女性性理学者 任允摯堂は、人間はすべて純粋で善の本性を備えている。
故にこれを回復すれば誰でも聖人になれると考えました。
そしてこのような普遍的な人格の実現という側面から彼女は男女の差もなく、むしろ男女の存在は陰陽の宇宙秩序のような相互補完的な存在だと考えたのでした。

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