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歴史

眞興王

2012-09-06

眞興王
新羅第24代王の眞興(チンフン)王の姓は金、名前は彡麥宗または深麥夫と呼ばれ、534年に法興王の弟の葛文王の息子として生まれました。
540年に法興王が息子のいないまま亡くなったため、わずか7歳で王位を継承します。
しかし実際にはその後の10年間は母の只召夫人が実質的な統治を行いました。
只召夫人は、現在の国防長官にあたる兵部令に異斯夫を任命し、王権を強化、それまでの貴族の協議体を中心とした政治制度を王権中心のものに変えようとします。
また国家が建立した最初の寺である興輪寺を完成させ、一般の人々も出家して僧侶になることを認めるなど、仏教の奨励に努めます。
そしてこのように母の只召夫人が基盤を固めた政治制度のうえに18歳になった眞興王が551年、いよいよ親政を始めました。

本格的に統治を始めた眞興王は、年号も「新羅が新しい王国に生まれ変わる」という意味の「開国」に変えます。
そして地方を視察し、領土の拡張に関心を深めていきます。
実際に眞興王は551年、それまでの新羅の王が誰も考えもつかなかったことをはじめます。
北からの遊牧民との戦いで、南の新羅や百済には気を使う余裕のなかった高句麗に対し、百済との連合軍で攻撃を仕掛けたのです。結果は百済と新羅の連合軍の大勝利で百済軍は漢江の下流地域を、新羅は漢江の上流地域10の城を手にします。
そして 2年後、 眞興王は今度は百済を攻撃します。
これは高句麗との密約によるものでした。
高句麗は一緒に百済を攻撃すれば新羅が占領した地域は新羅のものと認めるという提案をし、新羅はこの提案を飲んだのでした。
その結果、新羅は百済の領地だった漢江下流地域まで、自分のものとすることに成功します。

その後、百済の聖王は直接陣頭指揮して、新羅軍に攻撃を加えてきます。554年のことです。これに対して新羅は伽倻との連合軍で百済の管山城を攻撃し、見事、聖王を討ち取ります。
その後も新羅は南は現在の慶尚南道まで、北は咸鏡南道までその領土を広めていき、6年後には同盟国だった大伽倻まで滅亡させ、伽倻の領土を完全に新羅に取り込みます。

新羅の領土をそれまでの3倍にも拡大するという大きな功績を残した眞興王は568年、年号を「大きく繁栄する」という意味の「太昌」に変えるとともに新たに新羅のものとなった領土を直接訪れます。
その時に立てられたのが自分の業績などを彫った巡狩碑でした。
この時の巡狩碑の一つ、「眞興王巡狩碑興太王」で始まる碑はそれから1300年近く過ぎた朝鮮時代に、有名な学者・秋史 金正喜によって1816年、ソウルの北、北漢山の僧伽寺の裏でみつかっています。

このように領土拡張に熱中した眞興王でしたが、内政に関しては戦死した将兵の冥福を祈る法会「八關筵會」を開いたり、574年には皇龍寺に高さ5mの丈六像を建てたりしました。
そして何よりも大きな眞興王の功績は576年に文武を兼備した青年を育成することを目標にした花郎制度を創ったことです。
眞興王自身は43歳で亡くなりますが、花郎はその後も発展し、新羅が三国統一を果たす原動力となっていきます。

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