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旅行

韓国の独立運動の歴史を物語る「安重根義士記念館」

2011-08-16

韓国の独立運動の歴史を物語る「安重根義士記念館」
8月15日は韓国が日本の植民支配から独立したことを記念する光復節です。今年で66回目を迎える光復節を記念して、韓国の独立のために命を捧げた独立運動家の一人、安重根(アン・ジュングン)義士の足取りをたどる旅に出かけてみましょう。

ソウル南山(ナムサン)公園にある安重根義士記念館へはソウル地下鉄3号線、忠武路(チュンムロ)駅または東大入口(トンデイプグ)駅から電気で動く黄色の南山循環バスに乗って、南山図書館で降りた所にあります。初めて安重根義士記念館が建てられたのは1970年でした。現在の建物は最初の記念館が狭くて古くなったため、安重根先生の義挙101周年を記念して去年10月にリニューアル・オープンしたものです。安重根義士記念館には3つの展示室をはじめ、中国の旅順刑務所に投獄された安重根が書き残した書面などを展示した企画展示室、体験展示室などがあります。

韓国人にとって安重根は必ず義士をつけて呼ばれる特別な存在です。安重根義士記念館を入ると、ロビーの中央に韓国の伝統衣装、韓服(ハンボク)を着て座っている安重根義士の像が見えます。座像の後ろには断指同盟を結んだ時に作られた韓国の国旗、太極旗が展示されています。

伊藤博文は日本では明治維新を成功させた人物とされていますが、韓国にとっては韓国侵略の中心に立っていた人物でした。ハルビンで伊藤博文を狙撃し、死刑を言い渡された安重根は、1879年9月2日、弟やいとこなど15人の独立運動家を輩出した家に生まれました。

その生涯と業績を記念する安重根義士記念館の第1展示室には安重根の生い立ちと家系図などが紹介されています。そして、2階にある第2展示室には安重根の活動がもう少し具体的に紹介してあります。キリスト教信者になったきっかけから、11人の同士とともに左手の薬指の第1関節を切って独立のために尽くす決意を示した断指同盟までのいきさつ、安重根の亡命と義挙、伊藤博文を射殺した後、中国の旅順刑務所で殉国するまでの姿など、彼の主な活動に関する資料や映像といっしょに事件が起きた場所などが展示されています。

日露戦争で勝利した日本は本格的に韓国に対する併合政策を進め始めます。これをきっかけに安重根は中国の上海に身を移し、救国運動を繰り広げました。父の死をきっかけに帰国した安重根は三興(サムフン)学校を設立して国を救うための人材の養成に尽くします。また、1907年には日本帝国国債を国民の力で払おうという国債補償運動の先頭に立って活動を繰り広げました。1907年、ハーグ密使事件をきっかけに日本が大韓帝国の高宗(コジョン)を強制的に退位させた後、韓国の内政に関与する条約を締結すると安重根は国内での活動に限界を感じて亡命することにしました。ロシア連邦沿海地方で義兵組織を作った安重根は本格的な独立運動を決行します。そして、1909年3月、彼はロシアのクラスキノで11人の同士とともに指を切り落として韓国の独立を決意する断指同盟を結んだのです。

第3展示室には1909年、伊藤博文を狙撃したハルビンでの義挙と死刑によって殉国するまでの過程が紹介されています。展示室に入ると、今から102年前、ハルビンで起きた伊藤博文の狙撃事件の実際の映像をはじめ、蝋人形で再現された現場も展示されています。また、伊藤博文を撃った拳銃と安重根の義挙を報道した世界各国の新聞記事なども見ることができます。そして、その隣には旅順法廷で開かれた裁判の様子、旅順刑務所の様子などが再現されています。

1910年3月26日、午前10時。死刑が執行され、安重根は殉国します。韓国が独立したら祖国に葬ってほしいという遺言がありましたが、100年あまりが過ぎた今も彼の遺骸は見つかっていません。ソウルの竜山(ヨンサン)には仮の墓があって、若くして殉国した安重根の魂を慰めています。

国を守るために命を捧げた安重根。彼の生涯をたどっていくと、韓国の近代史と大勢の人が命を投げ出して守り抜いた韓国が新しく見えてきます。

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