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甲申政変と初の西洋式病院「濟衆院」

2020-09-26

KBS WORLD Radio

1883年の訪米使節団で全権公使を務めた閔泳(前列左)と副全権の洪英植(同右)。帰国後、洪英植は開化派、閔泳は守旧派(事大派)の中心人物となる。


 閔泳は、訪米のあと欧州やインド・東南アジアなど世界一周の旅をした。当時の西洋列強の植民地の実情を見て疑問を抱き、ロシアや中国に傾倒したという。 

 

 甲申政変で、開化派に襲われ瀕死の重傷を負った閔泳は、ドイツ人顧問メレンドルフの家に運ばれ、米国公使館の医師アレンの治療を受けた。セブランス病院アレン記念館の展示絵画。 


 セブランス病院入り口のアレン像。長老派教会から派遣された医療宣教師で、閔泳の一命を取り留めた功績で、国王高宗の信頼を得て王室の侍医になる。 

 

 アレンは国王高宗に、朝鮮初の西洋式病院の創設を提案。高宗が病院の敷地として提供したのが甲申政変の首謀者・洪英植の邸宅跡だった(写真は模型)。 

 

 洪英植の邸宅跡は現在、憲法裁判所となっている。ここにアレンの病院「濟衆院」があった。医学教育の場となり、のちの延世大学セブンランス病院の前身となる。 

 

 1904年当時の各国公使など外交団、右から4人目がアレン。アレンはその後、駐米朝鮮公使館の顧問や在韓米国公使館公使など外交官としての道を歩んだ。 

 

 新村セブランス病院にあるアレン記念館。西洋医学との出会いや独立運動の拠点になったセブランス病院のその後の歴史などを知ることができる。 

 

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