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韓半島 A to Z

北韓の歴史

1950~60年代

韓国戦争

ソウルを占領した北韓軍。北韓軍は開戦からわずか3日でソウルを占領した。

独立後、韓半島が分断された状態で南北にはそれぞれ性格が大きく違う体制が定着していった。人々は分断が固定化するとは考えていなかったが、南北で違った体制がそれぞれ定着していくにつれて、分断を克服するために双方がともに相手を吸収して統合すべきだという考えが拡大し、分断は対立へと発展していった。分断を克服し、統合すべきだという願いが大きくなればなるほど、対立は激化し、結局は韓国戦争がぼっ発した。

ソ連軍の支援によって軍事力を大きく強化した北韓人民軍は、1950年6月25日に38度線を越えて、南への攻撃を開始した。開戦初期は北韓が一方的に優勢だったが、国連が北韓の攻撃を侵略行為だとして、国連軍を派遣してからは戦況が逆転し、一時は国連軍が38度線を越えて鴨綠江近くまで進攻して、南北統一が実現するかのようだった。

しかし、中国人民解放軍が北韓に加勢して南下すると、再び戦況は逆転し、結局は現在の休戦ライン付近で戦闘はこう着状態に陥り、1953年7月27日に休戦協定が締結された。

金日成の1人支配体制確立

1949年3月 金剛山 右から金策、許哥而、金日成。

初期の北韓政権は、国内で共産党運動を展開した国内派、中国で共産主義運動をして帰国した延安派、ソ連で共産主義教育を受けたソ連派など、多様な派閥の連合形態だった。

金日成は比較的国内での基盤は弱かったが、北韓にソ連の社会主義体制を建設する代理人として、ソ連軍の全面的な支持を得て最高指導者になった。そのため初期の北韓の政治は金日成の権力基盤を強固にする過程であり、その方法は反対派を段階的に粛清することだった。

金日成にもっとも負担になった朴憲永。(メガネをかけた人)

まず最初に粛清の対象になったのは国内派だった。その後、韓国戦争がぼっ発、金日成は南への攻撃が失敗したことで政治的責任を問われることになったが、金日成はその責任を南の南朝鮮労働党に転嫁し、南労党の主な幹部をアメリカ帝国主義のスパイだとして粛清した。

1956年の第20回ソ連共産党大会でスターリンに対する評価切り下げの動きが拡大すると、その影響は北韓にもと、延安派とソ連派を中心に反金日成の動きが表面化した。金日成はこうした政治的危機を1956年6月の党中央委員会で支持勢力を糾合して乗り越えた。そして、延安派とソ連派の主要人物まで粛清して、1人支配体制を強化することになった。

韓国戦争当時、ソウル市臨時人民委員長を務めた朴憲永の側近、李承燁。

こうした過程を経て反対派の粛清が終わり、その後は金日成に対する個人崇拝と偶像化作業が本格化する一方、自派勢力の中でも不満または反対意見を唱える人たちの粛清も進められた。1967年には、金日成の1人支配体制構築に寄与した朴金喆や李孝淳が、労働党の路線に合わないとして粛清され、1969年には唯一思想に批判的だと理由で軍部の幹部だった金昌奉や許鳳學なども粛清された。このように自派勢力と言えども金日成の政治路線に少しでも反対する人物は次々と粛清されていった。

その結果、1970年11月に開かれた党大会以後は、北韓の指導部は金日成支持勢力だけになり、唯一指導体制、1人支配体制が定着した。すでにこのときから世襲体制の基盤を作る準備も始まっていた。

社会主義経済建設

韓国戦争で廃墟になった平壌市の復興作業。

北韓政権が樹立される以前から、38度線の北側では土地の国有化など、社会主義経済体制の構築が急速に進められた。1946年3月に制定された「土地改革法」によって土地の無償没収、無償分配が始まり、協同農場体制の基盤が築かれた。同じ年の8月には「主要産業国有化法」が制定され、主な企業や工場、鉱山、発電所、運送手段、銀行、商業、文化関連機関が国有化された。

韓国戦争中には、物資が不足したので小規模な個人の経済活動が維持されたが、全体としては国有化、集団化が進められ、1958年には農業の協同化、手工業そして中小商工業の協同化が終わり、いわゆる「生産関係の社会主義化」が完了した。

社会主義経済建設
時期 改革内容
1946/3/5 土地改革に関する法令公布
1946/8/10 主要産業の国有化法令公布
1946/12/22 地下資源、山林、水域国有化法宣言
1954/4 協同組合化に着手
1958/8 農業、手工業、中小商工業の協同化完了
1958/10~12 協同組合を全国に拡大。(協同農場に改称)

協同農場

農業協同組合体系が完成した後、北韓は農業の生産性を高めるために農業機械の生産に力を入れた。

農業協同組合体系が完成した後、北韓は農業の生産性を高めるため、農業用の機械の生産に力を入れた。

1953年末に農業協同組合が組織されたのが農業の集団化、協同化の始まり。こうした動きは1954年から本格化し、1958年8月にはすべての農家を協同組合に加入させ、農業の集団化が完了した。

初期の農業協同組合は1万3309あり、一つの協同組合は平均80世帯で構成され、平均の耕地面積は128ヘクタールだった。1958年10月には協同組合を里単位に統合して、協同組合の数を3843に減らし、一つの協同組合の平均世帯数は300世帯、耕地面積は495ヘクタールと、規模が大きくなった。

その後、1961年には郡の人民委員会から農村指導機能を分離し、専門的な農業指導機関である郡農業協同組合経営委員会を組織して、それぞれの郡にある農業用機械製作所、農業用機械工場、灌がい管理所、資材供給所、獣医防疫所などを直接運営するようにした。1962年には名称を協同農場に改め、協同農場経営体系が完成した。

計画経済のスタート

日本の植民地支配の間に、韓半島北部には発電所や工業施設が多く建設されたため、北韓経済は韓国に比べて有利な状況から始まった。

計画経済は、北韓政府が樹立される以前から、つまり38度線を境に南北が分断されたときから進められた。1947年と1948年の2回にわたって経済発展1カ年計画が進められ、1948年には産業生産を一挙に増やすための2カ年計画に着手したが、韓国戦争ぼっ発で中断された。

韓国戦争後の1954年4月、最高人民委員会第1期第7次会議が開かれ、生産水準を戦争以前の1949年のレベルに高めることを目標に、戦後復興3カ年計画を決定した。この計画は中国とソ連の援助もあって4カ月以上早く達成した。

1957年には、社会主義経済の工業基盤の構築と住民の衣食住問題を解決することを目標に経済発展5カ年計画が始まった。この計画もまた中国やソ連の援助によって計画した期間より2年早く目標を達成した。

千里馬運動

千里馬銅像前で行われた、かがり火大行進。

千里馬は1日に千里を走るという想像の中の馬だ。千里馬運動は、千里馬のようなスピードで社会主義経済を建設しようという運動で、北韓の計画経済の性格をよく表している。すべての労働者は共産主義思想にもとづいて動き、労働の強化を通じて生産の増大をはかることが最善の方法だとする考えから始まった。

千里馬運動以前にも、韓国戦争中の「増産突撃隊運動」や「3・1独立運動記念増産運動」、「労働節増産運動」、「常時増産突撃隊」などがあり、韓国戦争後は「復興突撃隊運動」、「民青巡回優勝旗争奪運動」などが展開された。しかし、1956年12月の党中央委員会全員会議以後は千里馬運動が始まり、これによって社会主義運動が本格化した。これが労働党の政治路線に採択されて、1957年に始まった5カ年計画とともに全国的に運動を展開し、1959年には「千里馬作業班運動」にさらに具体化された。
この運動によって5カ年計画は目標を早期達成した。1975年末から「3大革命赤旗争奪運動」という新しい労働運動が始まるまでは、千里馬運動は北韓の代表的な労働運動だった。

7カ年計画のスタート

年5月、黄海製鉄所を訪問した金日成と金正日。

北韓は1961年から社会主義経済体制の下で本格的な経済計画を進めた。7カ年計画が3回にわたって進められ、その中間に6カ年計画も1度進められた。

第1次7カ年計画は1950年代の5カ年計画によって築かれた工業基盤を発展させ、住民の生活を向上させるという目標のもとに1961年に始まった。この時期の北韓経済は、機械製作工業を中心とした重工業優先の政策を進めた結果、工業化に必要な初歩的な基盤はある程度でき上がっていた。しかし閉鎖的な工業化政策は限界にぶつかっていた。さらに1962年のキューバ危機を契機に軍事力増強の必要性が台頭し、「4大軍事路線」を採択、軍事投資を増やすことになった。

そのうえ中国とソ連の理念対立の影響で、社会主義国家の北韓への援助が激減し、7カ年計画の目標達成が難しくなる状況に直面することになった。このため1966年10月の党代表者会議で、計画期間を3年延長することを決めたが、結局は当初の目標を達成できずに終わった。